1994年7月13日 [ 2 ] 

文字数 2,583文字

 また夢を見ていた。暑い夏のような午後、私は窓を開け放ったパンダを運転しながら知らない街や山を越え、曲がり角も信号もない道を止まることなくひたすら走り続けている。どこまで進めばよいのかは分からなかったけれど、行き先はきっと海だと何となく思っていた。助手席には誰も居なくて、おそらく海で待つ誰かに会いに行く途中だったのだろう。だけど、急に車の異常を知らせるランプが点灯し、ガソリンは気付けば無くなっていた。
 何の予兆もなく辺りには霧が立ち込め、路肩にパンダを寄せて降りた私は、道の端に佇みながら無音で行き交う車をただ眺めていた。さっきまで左側通行だと思っていた道は右側通行で、霧を照らすいくつもの車のヘッドライトが乱反射し、もはやここがどこなのかも分からない程の光に包まれた私は、やがて遠くから迫り来る一台の車の音が聴こえると、そこで眼が覚めた。

 また寝汗を掻いていた私は、不快な身体を横たえたまま霞む眼をうっすらと開けると、芝のすぐ先にあるはずの私のターコイズブルーのパンダの手前に真っ黒なパンダが一台停まっているのが眼に付いた。まだ夢だったのかと、また眼を閉じて眠ろうとすると、突然、私の名前を呼ぶ声がして、今度は、はっきりと眼が覚める。

「早よっ、水持ってきて! 大丈夫? 大丈夫やんなぁ…… ミチヨぉ……」
 ピアノの心配を大袈裟に感じながらも身体が怠かった私は不様に日陰へと引きずられ、ピアノの問い掛けに頷きながら介抱されるがままにしていた。そして、差し出されたガラス瓶の冷たい水を少し口に含むと、胸の内側を行き渡る水分にホッとした。
「もう…… 大丈夫だから……」
「ほんまに? ほんまに大丈夫なんやな? あんな陽射しの下で寝て、日射病なってたんちゃうの?」
 日射病なのか、ただの寝過ぎなのか、私にも分からなかったが、とにかく、並々入っていたガラス瓶の水を欲した私は一気に半分ぐらい飲み干し、ようやく、いつもの自分を取り戻した気がした。そして、並んで停まる黒いパンダを眺めながら、「だからピアノは躊躇いもなく助手席に回り込み、ドアを開けたんだ」と、そんなことを考えたりしていた。

 ポーチのベンチに移動した私は、知らない男の人がせっせと買い物袋や段ボールを家の中へと運び込む側で、ピアノからこの家へ到着した後の話を聞かされていた。
「ほんま、ミチヨはどこでもすぐ寝るな――あの日も、着いて車降りたと思ったら倒れ込んで、そのまま寝てしまうし」
「ごめん…… いつもは、そんなことありえないけれど、限界まで疲れると、急に緊張の糸が切れたみたいになっちゃうのかな……」
「そんなん謝らんでもええで、運転しぱなっしやったし、疲れるのは当然、むしろ無理させて謝らんとあかんのは、ワタシの方やし、ゴメンな」
「ううん、いいの…… それよりあの人、手伝わなくてもいいの?」
「ああ、あれな、あいつは、ほっといても大丈夫。有り余る体力の使い道なんて他にないし。それより、お腹空いてないミチヨ? ずっと寝てたから――」
「――空いてる!」

 こんなに食事が美味しく感じたのは、最後に実家へ帰って食べた母親の手料理以来だった。日頃からたいした物は食べていなかったし、何も空腹だったからそう感じたわけでもなく、冷やご飯とアジの開き、キュウリの酢の物、初めて口にしたアオサの味噌汁は、本当に美味しくて、残っていたご飯やおかずの全てを私は平らげてしまった。
「よく眠るかと思ったら、今度はよく食べるなミチヨは」
 エッサウィラへ向かう為に家を出て以来、ようやく十分過ぎる睡眠と食事を済まし、もうすぐ丸二日、四十八時間になろうとしていた。あれから、まだ一日ぐらいしか経っていないような感覚だったけれど、時間や距離といった置いてきたもの全てが遠いように感じたのは、ここにはここの生活があるように、もっと別の時間軸、いや、むしろ時間の感覚を感じさせない、特別な流れの中にここは存在しているように思わされる。
「ごちそうさま。ほんと美味しかった。こんなちゃんとした物を食べたのは久しぶりだったから」
「何言ってんの、こんなんたいした食事じゃないで。余り物やし、なんせ、あいつが作った料理やし、うん、たいしたことない」
「おい、ちゃんと聞こえてるしな」
「うわっ、乙女の会話を盗み聞きしてる奴がいた!」
「誰が乙女やねん。少なくとも、お前が乙女とか絶対にありえへん!」
「――あの…… そろそろ、自己紹介させてもらえると……」
「何っ、ミチヨ、こんな奴に紹介とかいらんで。私の同居人、とだけ言っておこうか――」
「――お前っ、何が同居人やねん。ここは俺ん家やし、お前なんか居候やろ!」
 漫才みたいな会話を聞く限り、楽しそうでお似合いの二人だと思った。だけど、居候しているピアノは一体…… 東京から直行したここですら本当の家ではないのが凄いし、たくましいのか、それとも図々しいのか、私はまったくピアノのことは知らないのだなと思った。
「――ったく、もうええわ、ミチヨさん、俺、伊藤修って言うねん、よろしく」
「うわぁー、勝手にミチヨに自己紹介すんなや、しかも、『イトウオサムって言うねん、よろしく』っとか、キモっ」
「よく言うわ、お前自分でピアノとか名乗っといて、本名は――」
 この時のピアノの動きといったら呆気に取られるぐらい見事で、もの凄いスピードでオサムさんに飛び掛かると、指を口の中いっぱいに詰め込み、引き千切れんばかりに目一杯両横へと引っ張った。こうなると、もうオサムさんが何を言っても、フワァとかフガァといった情けない音しか聞こえない。
「これで、分かったかな? 余計なことは、言いませんか? オサムちゃん?」
「フワァ、フガッタ、フガッタ…… ブワァ、ハァ、ハァ…… って、ほんま、無茶苦茶やな、お前は……」
「よしっ、ミチヨ、ぐっすり寝て、いっぱい食べたら、次は運動やな! 行くで!」
 ピアノが私の手を掴み椅子から引っ張り起こすと、水の入った瓶を片手に、ダイニングから出て行こうとする。
「ほら、ミチヨ、おいでー。で、あんたは、お風呂沸かしといてなー」
 急かされるので、いそいそとオサムさんに「美千代です。色々、お世話になります」と、簡単な挨拶を済ませると、オサムさんはにっこり笑って、「あんな奴だけど、よろしくな」と小声で私に言った。
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