2004年7月22日 [ 1 ]

文字数 2,160文字

 むやみに歩き回ったところで簡単に成果を得られる訳も無いと知りながら、僅かな望みに賭けて探偵助手のアドバイスに従い日本人街や特に流行りの音楽や芸術好きの若者に関連するスポットを巡ってみたが、まるで観光をしに来たような物見遊山の行動は個人的に楽しくもなく、何も進展の無いままサンフランシスコへ着て五日目の…… 目覚めたら正午過ぎだった。もちろん、アップダウンを繰り返した足は悲鳴を上げて疲れ切っている。
 マーケットで買った不思議な味のする歯磨き粉で歯を磨き考え事をしていると、正直なところ、このまま見つけられなくても良いような気もしていた。探したという事実を持ち帰れば…… それはそうと、日本人街ですれ違い様に眼が合った日系人だと思われる女の子。どこか懐かしさを感じさせる眼だった。私を見ているというよりも、私を通して遠いどこか別の世界を見ていたような…… 懐かしさとは私の感情ではなく、彼女の感情だったのかもしれない。印象的な眼は、いつもどこか眼前にはないものを見つめている……
 様々な考えが湧いては消え、そしてまた立ち上がるのを繰り返しながら、簡単な昼食を作っていると、いつも以上にブロンドヘアーを爆発させたフレッドが珈琲ポットを手に三階までやって来た。いかにも寝間着といったよれよれTシャツ、くたびれ短パン姿だが、しっかりと例の白衣は上から纏っている。フレッドとは、その白衣を指すのではないかと馬鹿な事を思い浮かべながら、私は目覚めの挨拶をする。
「おはよう、フレッド」
「ホウ、お客様、おはようございます。本日は随分とゆっくりとしたお目覚めで、ホウ、モーニングサービスのコーヒーはいかがでしょうか?」
「ありがとう、いただくわ。もし食事がまだなら…… ん、時間的にはランチよね、オーナー様、ランチはいかが?」
「ホウ、イイ取引だな」
 帰路のフライト日までは残り数日。一応最後まで探してみて駄目なら諦めることも視野に入れつつ、探偵助手と改めての作戦会議には良いタイミングだった。それにしても、私の荷物はどこかの空の上でこちらへと向かっているのか、もしくはどこかの空港の片隅に忘れられたままなのか。
「ホウ、窓を開けるよ。ホウ、何て素晴らしい太陽だ! ホウ、サンフランシスコよ、グッド・モーニング!」
 頭一つしか入らない小窓へ顔を突っ込んだフレッドは、街に、太陽に語り掛け、頭を引っこ抜くと、こちらへと振り向き煙草へ火を点ける仕草をしたので、私はパンツのポケットから取り出した煙草とライターを放り投げた。
「ゴフッ、ゴフッ、ゴフッ…… ボウ、ボウ、ボウ…… 何て素晴らしい煙だ! サンフランシスコよ!」
 咳き込みながらも楽しそうにフレッドが笑うので、つられて私も可笑しくなる。ここで突然、尋ね人の話題を切り出すのも無粋なので、以前から聞きたかったフレッドのこと、むしろクリサリスのことについて尋ねた。
「フレッドは、ここのオーナーなのよね?」
「ゴフッ、ボッ、ボッウ、ホウ…… ああ、うっかり天使のお誘いを受けるところだった…… ホウ、そうだ、俺がこのクリサリスのオーナー。ホウ、ワシントン州の大学へ通っていたんだが、オーナーだった親父が急に死んで、ホウ、だからって畳む訳にもいかないだろ? 住んでいる奴等も居るし、ホウ、だから、大学を辞めてカリフォルニアへと戻ってきた訳だ。大学からしたら大損失だ! この天才の卒業を逃してしまったからな! ホウ、それにしても、サンフランシスコよ、なぜお前さんは、そうまでして、この俺を拘束するのか?」
 この狭いキッチンには私達二人の他に当然誰も居ないのだが、フレッドの迫真の演技を見せつけられると、サンフランシスコという名の第三者が居るように思えてくるから不思議なものだった。この一連の行動そのものが、この街を私の人生の内側の特別な瞬間へと自然な形で届けてくれる、フレッドの優しい心遣いだなのだと感じた。
「ホウ、サンフランシスコよ! ミチヨの尋ね人は、どこに居るのか? ホウ、今はまだベッドの中で寝ているのか? ホウ、それとも今は目覚め、俺が見上げるこの同じ太陽へと微笑みを返しているのだろうか? 聞かせておくれ、ホウ、サンフランシスコ、我が友よ!」
 大袈裟な演技で振り回したフレッドの指に挟まれた煙草がピタリと止まると、射し込む陽の光の中で幾重もの白煙の帯は時が止まったように浮かんでいた。風も無く、次第に煙はゆっくりとその形を変え、やがて消えゆく。まるでお芝居の演出のようだった。
「ブラボー、素晴らしいわ。次回のアカデミー賞が楽しみね」
「ホウ、ではその際は、レッドカーペットを一緒に歩こう! エスコートは任せな! ホウ、そうするとだ、テレビに映るぞ! ホウ、その尋ね人もきっと見ることだろう、それで万事解決! ホウ、いやいや、そんなに待ってもいられない、ホウ、むしろ、授賞式がいつだか知りもしない……」
 ようやく椅子に腰を掛けたフレッドは、落ち着いた様子で黙って何やら考え始めた。
 子供達のはしゃぐ声、走り去る車のエンジン音、陶器の皿とフォークが奏でる音、どこにでもある生活が流れていた。まだ、サンフランシスコ滞在数日なのに、随分と昔から、このキッチンに居るような気分にいつしか私は浸っていた。
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