2004年7月25日 [ 2 ]

文字数 2,230文字

 クリサリスへと戻り、荷物をアツカネに任せると、私は外の公衆電話を探して一ブロック歩いた。受話器を上げ、クウォーターを数枚投入し、予備の硬貨を電話の上に積んでから、流れる英語のアナウンスにかぶせるように日本の国際番号「81」を押す。ふと、そこで私はどうすればよいのかが分からなくなってしまった。アツカネを見つけて一緒に居ることを伝えたところで、もうそれ以上に言うことはない。ましてや、じゃあ一緒に帰って来なさいと言われても、きっとアツカネは納得しないだろうし、私の気持ちとしても、アツカネと話し、彼の本当の言葉を聞き、ここで一緒に何が出来るかを考えてみたくなっていた。母親らしくしなければという負い目も少しぐらいあったかもしれないが、それよりも、まだここでやるべきことがあるような気がしてならない。そうなると、日本への報告はアツカネとの会話の後でいい。受話器を戻すとジャラジャラ音を立てて戻ってくる「IN GOD WE TRUST / 神を信じる」という言葉。


 クリサリスに戻ると私の眼の前で入口の扉が開き、中から大きなボストンバックを手にした旅行者らしき一人の中年男が現れ足早に立ち去っていった。ちょうど男と入れ替わるように中へと入ると、ロビーにはフレッドの姿があった。
「今の男の人、お客さん?」
「ホウ、そうだ。だけど断った」
「それって、私達が泊まっているからじゃないの? アツカネを私の部屋へ泊めさせれば一部屋空くから、私はそれでもかまわないけど……」
「ホウ、ありがとう、ミチヨ。でも、イイんだ。今はミチヨとアツカネにとって大事な時だ。アツカネには独りになる時間も必要だし…… ホウ、とにかくだな、あなた達はクリサリスにとって大事なお客様でございますので、ゆっくりとサンフランシスコを過ごしていただきたく存じます!」
 茶目っ気たっぷりに高級ホテルのフロントの真似を披露しながら、この薄汚れた白衣を着た寝癖だらけのオーナー様は、悦に入りながら高らかと笑い声を発し、自室へと引っ込んでしまった。ロビーには私達の他に掃除の際に見掛けたクリサリスの住人らしき二人の男が居て、何やら三脚に載せたビデオカメラを囲んで話し合っていたが、今の私には関係も無いのでロビーから足早に立ち去る。それにしても、フレッドの気持ちの良い振る舞いは確実に他者へ影響を与えていて、体調不良のことなんてすっかりと忘れてしまう程、私はアツカネのことだけに集中する準備が出来ていた。フレッドなりの気遣いと優しさを受け取った私は、期待に応えるべく三階までの階段を上がる。

 キッチンを覗くと小窓から顔を出して外の様子を窺っているアツカネの後ろ姿があった。テーブルの上には、さっき買ったばかりの食材が広げられている。知り合い、友達でもなく、家族という間柄だが、まだ会って間もない突然出来た息子へ掛ける言葉を依然として探していた私は、またも躊躇する。こんな風に、いちいち考え込み立ち止まってばかりいても、最早、何かを得ることは無いとも分かり始めていた。残すは飛び込むしかないと…… 社会や人との接点を曖昧に取り繕う身体に纏った衣服を脱ぎ捨てて、決して底の窺うことの出来ない大海へと。それはどこか恋愛の始まりにも似た、特殊な感情と勢いのような、説明のつかないごちゃごちゃしたものだった。
「さぁてと、お腹も空いたしご飯にしよう。作るの手伝ってくれる?」

 サンフランシスコの狭いキッチンで、アツカネが野菜を洗い、私は受け取った野菜を切る。日本人女性にしてはやや身長の高い方に入る私だったが、アツカネと並ぶと彼の方が顔半分程抜け出ていた。こういうことを今から少しづつ知っていくのだろうと思いながら野菜を受け取る。そして、意外な発見というのだろうか、アツカネは丁寧に野菜を洗うので、次第に私が待つことが多くなり、その間、彼の横顔をじっくりと間近に眺めることになった。まだ、青髭も浮き出ていない、艶のある滑らかなそうな肌を見ていると改めて幼さを実感してしまう。
 野菜を切りながら、次に何を話すか考えていたが、また妙な袋小路へと迷い込みそうな予感がしたので、わざわざ自ら迷路へと入り込むような回りくどいことはしてはいけないと、ただ自然に言葉を発することだけに心掛け、私は包丁の刃を動かしながら、一番確かめたかったことを聞いてみた。
「それで、なぜ帰らないの?」
 木製のまな板の上で切り刻む青々とした葉物へと視線を落としながら、私は話し掛けた。切り刻む包丁の刃とまな板がぶつかる音、野菜を洗う水の音、街路を通り抜ける車の音、アツカネの返答は無く、ただ、それらの音だけが、それぞれの活動を主張したまま響いては消えてゆく。ふと、顔は動かさずに視線だけをシンクにやると、野菜を洗う手は止まり、蛇口から流れる水だけがチョロチョロと野菜や手の甲を伝いながら流れ落ちていた。顔を窺うことは出来なかったが、それはアツカネの流す涙のようにも見えた。
「今は、まだ分からないけど…… 何となく、今帰ったところで、また前のような日常が過ぎて行きそうで…… だから…… 帰りたくないんです……」
 私達しか居ないキッチンで、眼に映るのは、唯一躍動していたシンクの闇へと引き摺り込まれるように流れ落ちてゆく水だけだった。少なくとも私の眼には、それがやけに不安に映る。見えなくなってしまうことで、その先をいとも簡単にイメージ出来なくさせてしまうから。
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