2004年7月26日 [ 3 ]

文字数 2,231文字

 良書は向こうからやって来る。誰かが言ったのか、どこかで見たのか、最早覚えてはいないが、この言葉を私は信じていた。決して迷信じみたことではなく、行動を起こした先には必ず何かの結果があり、感性が敏感になっている時だからこそ、そういったものへの注意力が良書へと導く。何も本に限ったことではないが、私の場合、人生を彷徨い歩く先で本に出合うことが多いのは、私が本を信頼し、こちらからすり寄るからだろう。

 何も無かったかのようにお爺さんは読んでいた本へと視線を落とし、またさっきまでと変わらない穏やかで静かな時間の流れる古書店に戻っていた。一瞬、時が裂けたような空間から飛び出てきた一冊の本。手に取る前から、この本を直感で私は買うと知っていた。
 見た感じ美術書のような大判の分厚い本の表紙には、聞いたことのない著者の名前と、おそらくタイトルと思われる「EXODUS」という大きな文字があった。白地に黒の文字だけの表紙からは、この本を売ろうとする商売意欲を感じられない。大抵の人は、この時点で見向きもしないかもしれない。では、著者が有名なのかもしれないが、私は知らない訳で、タイトルの単語が人の関心を惹く意味なのかもしれないが、私には初見であり、単語の意味も知らなかった。後は開いてみるだけ。

 私にとっての良書の定義は、そこへ記された言葉に感銘を受けるのか、もしくは、存在から何かしらのインスピレーションを得るのか、どちらかだ。少し緊張した手で本を掴むと見た目通りの重さが伝わり、左手と腕で大きく支えるようにし、硬い表紙を右手で開くと、そこには68年発行の文字と、その時代そのままのサイケデリックでカラフルな色彩が見事に溢れ出してきた。ページを捲ると人物や花、動物、昆虫、建物、乗り物と、沢山のイラストが描かれ、それらには、それぞれ短い文章が添えられていた。イラストが断片的な記憶を呼び起こし、私はページを跳躍しながら同時に過去を見た。それらは、もうこの世には存在しないかもしれない。でも、私は今ここで、生々しい記憶と共に、それらを一番近くで見ていた。その当時には、ある筈のない視点で、ある筈のない場所から、まるで、私がそこに居ないかのように…… 私はページを捲り続ける。後半に差し掛かる辺りで、私は手を止めた。そこには見開きで大きく翅を広げた蛾の絵があり、すぐにクリサリスのフレッドの部屋を思い出す。もう二度と飛び立つことのない標本や本、ポスター、絵画。この本に描かれた蛾と同じように、薄暗い本棚や部屋の中で、夜霧のサンフランシスコの夢でも見ているのだろうか。最後のページの右上に二ドル三十セントと鉛筆で記されているのを確認すると、私はカウンターに十ドル紙幣を置き、お爺さんにお礼を言った。
「どうも、ありがとうございました、素晴らしい時間を。お釣りはいらないわ」
「ああ、こちらこそ。本があれば、どこへだって行けるよ。もちろん、過去も未来も」

 薄暗い店内から出ると、入った時と変わらないカリフォルニアの眩い陽射しに照らされ一瞬眩暈がした。少し現実的ではない感じがしたので振り返ると、そこには店が確かにあり、手にはしっかりと本を抱えていた。しかし、白昼に見た夢からはまだ覚めず、魔法も解けていない。この本が現れ、手にし、開いた時から、胸は高鳴り、私はそわそわしていた。早くクリサリスへと帰り、ゆっくりと本を鑑賞したい気分だったが、この落ち着かない気持ちを知っている誰かに見られたくなかったので、私はクリサリスの方向へと戻りつつ、少し立ち寄れる場所を探して歩く。公園の青々とした芝生の上でも、大理石の大階段でも、どこでも良かったが、ちょうど通りの反対側にカフェの看板を見つけた私は、車が通り過ぎるのを待って車道を横切った。

 外は何の変哲もないカフェのように見えたが中は違った。店内の天井や壁の至る所、隅々まで配管がごちゃごちゃと這い回り埋め尽くしていた。入口でこの奇抜な内装に唖然としていると、後ろから人が来たのでレジの前へと急かせれるように躍り出る。
「ホットコーヒーと…… そのドーナツを一つ……」
 お金を支払い、カウンターで珈琲とドーナツを受け取ると、私は店内の隅の席へと着いた。改めてよくよく観察した配管には、それぞれに州の名前が愛嬌のあるカワイイ字で大きく書かれ、大小様々な人名も個性的な筆跡で書かれていた。観光地にある落書きのように、遠くから遥々来た人々が書き記したのかもしれない。本当に五十州全てあるのか気になったが、複雑に入り乱れた配管から全ての州名を探すのは困難なので諦める。きっと、それぞれの州へと配管は繋がっていて、個々へ訪れた人は皆、故郷に思いを馳せる…… その中でも一際輝く黄金色の一本。その配管を眼で追うと、丁寧な赤い字でカリフォルニアと書かれていた。「Golden State / 黄金州」、我が州が一番といったところだろう。
 白い砂糖でコーティングされたとびきり甘いドーナツを一口かじり、珈琲を飲み込むと、私は本をテーブルの上へと置いた。適当にパラパラと捲り開いたページには豹が描かれていた。そのイラスト脇には、「豹は斑の色を変えることが出来る」と記されている。その言葉の意味を考えながら、ふと私は蛾のイラストに添えられた言葉が気になり蛾のページを探す。そこには、「母は炎を目指す」とあった。
 珈琲が冷めても、私はずっとそのページをただ眺めていた。
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