1994年7月23日 [ 4 ]

文字数 3,274文字

 これまでの私の半分と今の私の半分、急に何かが変わるわけでもなく、これからだって何度も迷い…… そう、こんな風にしっかりと現実の知らない道で曲がる所を間違え迷うように…… まあ、さほど変わり映えはしないのかもしれない。ただ、不必要なものを選り分け取り除くことで、本当に必要だった道を探し当て、頭の中に響く音に耳を傾けてみようと思う。これは、ピアノの演奏から学んだこと。たった一つ、掴むのは一つでイイ、本当に出会える感情は時の瞬きに一つしかないのだから。

 名古屋に入ると道が分からなくなってしまい、偶然見つけた高速道路の入口へと入っていった。加速と共に思考のスピードも速くなり、やがて追いつかなくなった想いや考えは後方へと散ってしまい、もう二度と現れることはないであろう黒い雌馬の音を私は思い浮かべていた。このまま、どこまでだって行ける気がしても、お腹を空かしたパンダに笹を食べさせなければならなくて、さらに、当然何も食べていなかった私のお腹だってペコペコ。岡崎という街を過ぎ、検札で東京まで行くことを告げ、最寄りの浜名湖サービスエリアへと入った頃には日付けも変わっていた。
 駐車エリアにパンダを停め、冷たいお茶を買ってくると、早速ピアノに貰った紙袋を開いてみた。中にはラップに包まれた本当に大きな真っ白のおにぎりが一つと、さらに封筒が一通入っていて、「帰りの高速代+ガソリン代」とのメモが貼られたお金には恐縮しつつも、「本当にありがとう ピアノ」と書かれた領収書には思わず笑ってしまった。
 私はおにぎりを頬張りながら、ピアノの書いた字を眺めていた。少し塩気の効いたおかかおにぎりは、生涯忘れることのない味になるのかな、なんてことを考えながら。

 その後もしばらく深夜の高速道路を走り続けたが、静岡の東部に差し掛かったところで力尽き、滑り込んだパーキングエリアで疲れ果てて寝てしまう。私のことなど誰も知らない、ここがどこかもよく分からない土地の夜明け前の空の下、志摩と東京の間で区切られた日付けと眠りの時間。境目を越えるのは夢の中なのだろうか……


 1994年7月24日。見ていた夢も、うだるような暑さに溶けて消え、じっとりした不快な目覚めのパーキングエリアの木陰のベンチで私はしばらくの間ぼんやりとしていた。水分を求め、自販機の前までやって来て、財布をパンダの中に忘れてきたのだから全く成長を感じない。ダメな私を、少しは涼しく感じる風が、あのポーチに居る気分にさせてくれた。

 日中の関東へ近づくにつれ、車の勢いは明らかに増し、家から最寄りのインターで高速道路を降りると、しばらく遠ざかっていた都会の日常を垣間見た。道は人々の行き場のない感情で溢れ、思考を許してくれそうにもない忙しない時間だけが、後ろから追うようなスピードで迫ってくる。もう、私は志摩には居なかったし、次々と迫り来る過剰な情報が次々と記憶を上書きしてゆくので、本当に志摩に居たのかと不思議に感じる程だった。決してこれを悪いことだとは思わないけれど、ここに海があれば、少しは違うのかもしれない。

 家に着き、屋外に据えられた階段を上がり、玄関の扉を開けると、こもっていた熱気に退き、見渡した部屋の眼に付く馴染み深かった物全てがやけに遠く感じた。案の定、壁に貼っていたポストカードは床の上に剥がれ落ちている。
 パンダに積んであったものを部屋へと運び込み、恐る恐る冷蔵庫を開けると中に残されていたもやしは無残な姿を晒していた。次のゴミの日までどうすることもできないので、とりあえずはそのままに、生温い水道水をたらふく飲み干し、冷房を点けベッドに横になると全てがどうにでもよくなって、そのまま私は眠ってしまった。
 二度程だったか、トイレへ行こうと目覚める度に妙な夢を覚えていたが、そこに黒い雌馬が現れることもなく、そればかりか、真っ暗で物音一つしない自分の部屋に嫌気が差し、現実から逃れるように再び眠りに就いた。本当のところ、いくら強がってみても、まだ旅が終わって欲しくなかったから……


 1994年7月25日。これ以上は寝られずベッドから起き上がると陽が昇っていた。外では働く車の音や近所の子供達の声がして、カーテン越しに射す陽の光で朝だと分かった。何となく、もう旅の終わりからは逃げられないことを私は悟った。

 シャワーを浴びてから新しい服を着て、ビン玉や流木を部屋の片隅に置き、使い込んで古くなっていた歯ブラシを交換し、剥がれ落ちていたポストカードを貼り直すついでに、アメリカや志摩のポストカードを鏡台の鏡の周りに貼ってみた。旅の間、留守番をしていた化粧品が随分とよそよそしく並んでいるが、日が経てば、これもまた馴染んでくるのだろう。
 洗濯機に服やタオルを放り込み、スイッチを押して手持ち無沙汰になると、ここには誰の声も無く、独りだということを理解し始めた。少しずつ私は、これから鳴らす自分の音へと基準を合わせ始めていたのかもしれない。結局、そんなことを考えながらいたずらに時間を過ごし、洗濯機にも終わりを告げられて、狭いベランダに出て洗濯物を干す。私だけの少ない洗濯物を。
 本当にすることがなくなった私は、珈琲を淹れようとして、また一人分でよいことに気付く。何かをする度に、こんな風にいちいち立ち止まってしまうことがいつまで続くのだろうと、私は珈琲をそのままにして煙草に火を点け考えた。ピアノやオサムさんに会いたければ、それこそ今から家を飛び出してパンダを走らせればよかった。もちろん、二人への想いは私の気持ちの中に大きいものとして芽生えていたが、それだけではない何か引っ掛かる事柄が他にありそうで……

 私は淡い海の色をした小箱を開き、真珠のイヤリングを摘まみ上げると、私はそのプラチナのチェーンが付いた白い深層の球体を振って眺めてみた。あの日読んだ本には、アコヤガイの中に入れられた異物へまとわりついたいくつもの層の形成が真珠を生むと書いてあった。きっと、この真珠も長い年月を英虞湾の海中で過ごしていたのだろう。振り子のように揺れていた真珠は徐々にその運動が弱まると止まりかける。その時、私はふとピアノの言った言葉を思い出した。
『穏やかな英虞湾の海面に映る満月って、大きな真珠なんやって』
 英虞湾へと流れ込んだ音を巨大な月が吸い込み大きくなる……

 現実に鳴った音は終わることで消えてしまうが、鳴った時に聴いた印象は記憶の中で今も続き、永遠に終わることはない。忘れてゆく音は、きっと必要がなくなるからで、そこにまだ理解していない意味があるのであれば、いつかまた、それを知った日まで記憶は遡り音は還ってくる…… 黒い雌馬…… それは、長い一つの曲だったのかもしれない。終わりへと進行してゆく五線譜上の最後の音……
 私は何も書かずにしまっておいたお気に入りのノートを引っ張り出すと、テープレコーダーを用意し机に向かった。すでに去っていった、もう半分の私へ、再び会える場所を確保する為に。

 昨日までのことを全て書き終えた私は、テープレコーダーへ貰った録音テープを入れ、部屋の片隅に転がっていた掌ほどのサイズの流木を一つ掴み、ベランダへと出た。
 モノラルの安っぽい内臓スピーカーから流れてくるオサムさんの叩くドラムとピアノの演奏、私の声。湿り気のある風に髪を晒しながら、夜空に紛れ微かにしか映らない並んだ五本の電線に流木を重ねかざすと、音符の残骸が頭の中に一つの音を響かせた。どこへ行くのか分からないその音の軌跡を眺めながら、この先の私の人生を想うと涙が溢れるのに、なぜだか少し笑みもこぼれる。色々なことが過ぎてゆく中、今、理解出来ることなんてほとんどなくて、これから先に託す為に今の私は考え、音を鳴らす。人生って音に似ていて、鳴り始めた時にどうなるかなんて、誰にも分からないんだから。
 時計の針は0時を過ぎ、日付けが変わった。1994年7月26日、ここからは新しい私の日記の始まりだ。

  第一章 完
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