2004年7月26日 [ 2 ]

文字数 2,559文字

 通りを歩く私は、油の中に浮かんだ一滴の水のように弾かれ孤立している気分だった。私の外界は七色に輝き、両手を広げて迎えてくれているのに、今の私には、それがどれだけ遠く異質に感じることか。決して交わることもなく、やがて私は賑やかな通りの外れまでやって来て、ようやく大きく一呼吸する。この前世紀から連綿と続く熱量からどうにか弾き飛ばされず済んだ私だったが、振り返った通りを見て、もう一度、ここを通り帰れる気はしなかった。
 クリサリスを出てからの時間を計算してみてもそれほど経過しておらず、ロビーで待ち構えていそうなフレッドを思い浮かべると、まだ戻るには早かった。行く当てもなく、街を彷徨い歩くことにも疲れ、天を仰ぎ見ると太陽はギラギラと白く輝く…… 大王崎の灯台のボディが記憶の彼方から迫り来る。どこまでも白く、眼の奥まで焼き尽くすかのように記憶へ刺さる。次の瞬間、私は大海原を漂う流木だった。逃げ場も無く、どこまでも広く、波に煽られ揺れる私の身体……
「――ねえ、あんた大丈夫?」
 我に返ると、眼の前に短い髪を緑色に染めた一人の若い女の子が立っていた。
「あっ、えっと、大丈夫です!」
「あんたさ、ドラッグは、ほどほどにしときなよ。まあ、私が言える立場にないけどね。じゃあね、良い一日を!」
 他人の眼にはドラッグ中毒者と映る自分に落ち込んだ。溜息一つ吐き出し、トボトボと歩き出す。もう戻りたくないから、ただ真っ直ぐ先へと。

 通りは住宅街へと変わり、この辺りに観光客らしき姿は無かった。人混みや名所といった類の場所はそもそも苦手なのに、さらに余計な悩みまで抱え、私の心身が持ち堪えられる筈もなかった。では、そっとしておけば良いかというと、そんな時間の余裕も無く、どうするべきか分からないまま、ぐちゃぐちゃになった感情を引き摺りながら歩いていた私の歩く先に一軒の本屋の看板が現れる。知の存在、今の私が望むものをようやく見つけ、少し救われた気がした。

 店の前までやって来て、そこが古書店だということを知る。新刊本の少し気取って澄ました感じより、ぬくもりや人の手あかの付いた古書の方が好みで、また、人々が忘れてしまった宝を探すような古書店の雑多な佇まいが好きだった。そして、ここは正にそんな雰囲気がショーウィンドウ越しの店内にも見て取れた。
 店頭の歩道上には色褪せたペーパーバックがぎゅうぎゅうに木箱へと詰め込まれ、まるで身動きの取れない私のようだった。しかし、そのどれもが私ではなく、一冊手に取ってみても、表紙に印刷された見つめ合う白人男女のラブロマンス風イラストの上に読む気も起らないくだらなそうなタイトルが躍っているだけ。ただ、眼に次々と押し寄せるタイトル、むしろ言葉の数々は、今の私にとって期待を抱かせた。悩みに対して私は何か言葉が欲しかったのかもしれない。それは、順序だって導き出される言葉ではなくとも、偶然迷い込む言葉で十分だった。とにかく、私は過去の偉大なる知恵へと救いを求め、扉を開く。

 紙と黴と埃の混じり合った心地良い匂いが私を出迎える。そして、外からは見えない入口脇の位置に本が積み重なった小さなカウンターがあり、その内側には店主らしきお爺さんが埋もれるように居た。彼は笑顔だけを残し、開いていた手元の本へ視線を戻す。無音ながら言葉に溢れた店内に余計な言葉は不要ということだろうか。遅ればせながら私も軽い会釈をしつつ店内を見回す。店の奥へと続く壁のような本棚によって通路は三本に別れ、ある程度のジャンル分けはされているようだった。お爺さんから一番遠い左端の通路へ入ると科学系の本が並んでいて、普段は見向きもしないそれらの本の背表紙を一冊ずつ眼で追いながら、私は自分に問い掛けるように頭の中で黙読する。棚の上段から下段へ、そして、積まれるように押し込まれた最下部まで余すところなく眼でなぞる。この作業を続けながら私は、見知らぬ土地でも私を安心させてくれる古書店が有難く感じた。少しの間でも私を外界から守り、意識を没頭させてくれる存在。たった一店の小さな店舗でも、一人の人間すらを簡単に凌駕する知識量。どこまでも広く深く、海のように……
 眺め、少し横へと進み、時に手に取り、開いては、眼に飛び込む文や単語を拾う。それは活版印刷の活字拾いの作業に似ていて、私が必要としている言葉を探しているようだった。実際、手に取った古い本の中にも活版印刷で刷られた本がたくさんあり、人差し指で文章に沿って紙をなぞると、でこぼこした質感が伝わってくる。しかし、活版印刷のように決められた言葉や求めている文字が私にある訳ではなく、今の私に必要な言葉は分からない。きっとこの店のどこかに私を呼ぶ本があると信じて、私はひたすら眼で本を追い続けた。

 何時に店の敷居を跨いだか定かではなかったが、おそらく二時間近くは本を見ていた。その間、誰一人として店へ訪れる者は無く、ただ静かな時が流れる。店のお爺さんの存在すら忘れる程、私は独り本と向き合い、そして、店のほとんどの棚を制覇した私に残されていたのは、一番楽しみだった美術書の棚だった。それはお爺さんの居るカウンターの側にあった。猫背で前屈みに俯くお爺さんは寝ているのかどうかさえ分からないぐらいに微動だにせず、眼の前に開いた本を眺めているようだった。邪魔をしないようにそっと棚の本を手に取りながら、色鮮やかな本を開く。サンフランシスコ、フラワームーブメント、ヘイト・アシュベリ―、正にその歴史的な中心に私は居て、ここは手に広げた昔の本から現代までの時の流れの果てだった。それは私が遡ったのか、それとも向こうがやって来たのかは分からない。とにかく、今は過去からの果てでありながら、未来にとっての懐かしい始まりだった。あの頃、この辺りに居たヒッピー達は、どこへ行ったのだろう。彼や彼女達は、どんな夢を描いていたのだろう。そんなことを考えながら、何冊も本を手にとっては開き、眺め、棚に戻すのを繰り返し、次の本へ手を伸ばした時だった。
「この本は、いかがかな?」
 突然のことで少し驚きはしたが、恐る恐る声のする方を向くとお爺さんが一冊の本をゆっくりと取り出し、狭いカウンターの僅かな隙間に、そっと置いた。
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