1994年7月17日 [ 1 ] 

文字数 2,545文字

「おはよー、ピアノちゃん、あんた久しぶりやね! そっちの隅の方やったら停めてかまへんよー」
 停まっている車は、まだ一台もない朝の波切(なきり)漁港観光駐車場。元気いっぱいの駐車場のおばさんとピアノは知り合いのようだが、ピアノの顔の広さを、またもや思い知らされる。知り合いがほとんどいない私とは本当に真逆で、ピアノのように立ち回ることは一生出来ないだろう。二人が話し込んでいる間、私は私らしく独りで小さな漁港の岸壁に立ち、辺りを見回していた。地形が回り込んだ防波堤の中にある港には波一つなく、緑色をした海水へと垂れ下がった船を係留する太いロープに、ゴツゴツ、トゲトゲとした貝のような物がびっしりと貼り付いていた。その太くて、かつ鋭利なビジュアルには生命の強さと、威嚇して寄せ付けない迫力がある。こういったものは、なぜか夢に出そうだなと思った瞬間、今朝目覚めた時に黒い馬の夢を見ていなかったことに気付いた。どこかにいるのだろうか、と何気なしに振り向くと、真後ろに居るピアノ。
「ちょっと! びっくりするじゃない!」
「ミチヨ、何してるんかなーって」
 こんな調子で、人の懐に飛び込んで来るから…… もちろん、私もそうしてここにいるわけで、得体の知れないこの人懐っこい生物のことは、まだまだ知らないことだらけだった。
 ピアノと並んで波もない緑色の海を眺めていると、小魚の魚影がちらつく。深く沈み込んだ底にある夏の景色、重苦しい大気の上昇が始まった朝、私は何か物足りなさを感じていた。
「夏っぽさが…… あと何かが、足りない気がする……」
「やっぱ蟬ちゃうの?」
 確かに、あの鬱陶しいぐらいに鳴きまくる蝉の声が、明らかにこの暑い景色には欠けていた。以前だと、五線譜に永遠と連打して刻まれる音符が私の夏の風物詩だったけれど、今後、私の夏は二度と訪れないのではないかという不安と、私があまりに変わってしまったことに、今さら恐怖が押し寄せてくる。こんな些細なことまでもが、これまで私と世界を繋ぎ止めていたのかと思うと、私の係留ロープだったのは、さしずめピアノの絃だったのかもしれない。ただ、それも錆びついて今は切れてしまったのか…… 最後の哀れみの音を発することもなく、突然に。
「おばちゃーん、ここら辺って蟬の声しないけど、なんでー?」
「そんなんじきに鳴き始めるでー、毎年七月二十日になったら一斉に鳴いてやかましなるわ」

 駐車場のおばさんに送り出された私とピアノは、歩いて灯台へと向かった。漁港沿いの通りには、海鮮物店が並んでいて、捌きたての魚が平たくて大きな二枚の網に挟まれ干されている。漁港に住み着いている野良猫が鼻をヒクヒクさせながら立ち上がったけれど、また陽溜まりに溶けて寝転ぶ。そして、この絵に描いたようなのどかな光景を正に絵で描いている人が居た。
「絵描きの町って言われるぐらい、ここ大王崎って絵になる風景多いねんで。なんてったって高台に建つ大王崎灯台の雄姿と輝く太平洋の大海原、波切の石の階段も風情あるし、高低差が絵になるんやろなー」
 この波切漁港へ至る急な下り坂は独特の地形を生み出していて、一気に山の上から海へ下ったような不思議な場所だった。そして、ピアノの言う通り、海のすぐ側にも小山のような盛り上がった場所があり、入り組んでいるようでまだ灯台は見えなかった。目新しいことばかりであっちこっち見ていた私は、漁港の片隅で綻んだ漁の網を編む漁師が眼に付いた。熱心に指を動かしているその姿は、漁具もこの町も大切にしているように見えた。

 少し上り坂になった道に立ち並ぶ真珠店の先には、視界を遮るコンクリートの長い防波堤が青い空を真横に切り取っていた。ここで突然聴こえ出した荒々しい大波の轟く重い音、そして、舞い散った潮を含む湿った強い風が確かな感触を肌に残す。来るな、近寄るなとばかりに怒号を連呼する、打ち寄せてはじける波の音だけは辺り一帯響くのに、その光景が現れることはなく、ただ音だけが繰り返されるばかり。あるはずのものがないのは、どこか夢の中にも似ていて、さっきの係留ロープといい、アンバランスでありながら成立している妙な感覚がここにはあった。ただ、潮風を除いて。
 少し高台にあるコンクリートの堤防の側に立った私は、また太平洋の縁へと戻ってきた。遠くまで見渡せる湾曲した海岸線へ向かって次々と押し寄せる強い白波。音と光景がようやく一致したのでほっとしたのか、歩みを止めた私はその場に佇んでしまった。波はどんどんやって来る。何を運んで来たのか誰も知らず、最後は岩にぶつかるか、浜に散って消え去る。ここへ訪れてから頭の中に湧いて出てくる、とりとめのない光景からの数々の言葉。波は言葉を運ぶのだろうか、それとも、まだ私の知らない何か…… ピアノも黙って一緒に海を眺めていたけれど、何を想っていたのだろう。

 海のすぐ側のはずなのに山のような坂は続いていて、急な角度となった小路を私はピアノの後に続いて上る。狭い道の上には庇が掛けられ、この海辺に照り付ける強すぎる陽光を遮っていた。いくつもの海産物店と真珠店を抜けて坂を上りながら、私はこの特異な光景にどこか懐かしさを感じていた。もちろん、初めての場所なので全く記憶にはないが、またもや土地が持つ奇妙な力に魅せられているようでもあった。そんな中、突然出てきた看板の絵が、さらに私の頭を揺さぶる。
「何なの…… これって…… 怪物?」
「ん? だんだらぼっち」
「え?」
「だんだらぼっち、んー、妖怪みたいな感じかな」
 一つ目の鬼のような大男の絵が、土産物屋の看板にものすごくポップに描いてあり、それを当たり前のように話すピアノは、まあ変わっているとしても、それを当たり前のようにキャラクター化しているここも相当変わっているのかもしれない。むしろ、何だか私一人が常識の外に居るような気にもさせられてきた。本当にこの土地は、どれだけ私を揺さぶれば気が済むのかと思いながら、次第に息の上がってきたのろまな歩みで急な坂道をうつむいて上っていると、先を歩くピアノの遠い声がした。
「ミチヨ―、早く―、灯台やでー」
 道を覆っていた庇の切れ目からのぞく真っ青な空の中に、白いそれは建っていた。
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