2004年7月25日 [ 1 ]

文字数 2,374文字

 目覚めても、世界は眠りに就いた時から止まっていて、そしてまた、その続きから始まる。実際、本当に変わっていたのは日付けだけかと思うぐらいに相変わらず身体は重く怠い。ただ、ほぼ丸一日寝ていたことが意外で、そんなことは久しく無かった。
 昨日出来なかったことを考えながら洗面所へ行こうとして気付いたのが、少し開いたキッチンの扉の向こうで椅子に座っていたアツカネのことだった。彼と眼が合った。そして、彼の眼の前のテーブルの上には一冊の大きな本があった。
「おはよう。何の本を読んでいるの?」
 こんな時、昨日のこと、気を遣わせたことや、お金を借りたことをまずお礼と共に話すべきだろうが、それらを簡単に蹴散らしながら飛び越えたいぐらい、手の中の本のことが知りたかった。多分、ほとんどアツカネのことを知らない上に、彼自ら発信することが無いので、眼の前の本という糸口を何としても逃したくなかったのかもしれない。でも、私はアツカネのことを目覚めた時に想うことはなかった。母親には程遠いことが、今さらながらに気付かされる。
「あっ、おはようございます。フレッドに本を借りたんです」
 小窓から射す陽の光に溢れた小さなキッチンは、これまでの私の生活には感じることのなかった、どこか私からは遠い幸せのようなもので満ちていた。それを私は、どう扱えば良いのかも知らなかったし、だけど私はそこへと入らなければならず、そもそも私の人生にそんな一ページがやって来るなんてことも信じられなかった。普段と違う服を着さされたような違和感、いつか、これを自然に感じる日が果たして私に訪れることはあるのだろうか。
「蛾の本…… らしいというか、蛾しか載ってないんですが……」
 私の方へと見えるようにかざした大きな本の表紙には、美しい色の翅を広げた蛾の鮮明な写真が一面にプリントされていて、確かにフレッドから借りた本なら蛾も当然だった。それにしても、何もかも先手を打てないもどかしさ、この一歩遅れた感じが、私はまだ昨日に取り残されているようだった。世界は先へと進み、私は一日前の私を暮らしている。
「そういえば、ご飯、昨日のご飯はどうしたの?」
「フレッドと一緒に食べました。それより、身体は大丈夫ですか?」
 人の心配をする前に自分のことか…… 無理に取り繕った母親を演じたところで全く駄目な訳で、さらに、こんな異国の地で今まで生活していたアツカネは行動力もあり、それなりに大人なのだから、勝手な私の中で抱いていた幼い子を持った母親のようなイメージは一気に吹き飛ばされ、全く想像すらしていなかった大人になった子を持つ母親編が準備不足ながら始まっていることを自覚させられることとなった。
「心配させて、ごめんなさい。でも、昨日程ではないから。それで今は、お腹空いてない? と、言ったところで、何も食べるものなんてないか……」
 まだ身体の調子が悪いなんて言えなくて、心配を掛けさせたくないから嘘を付いて、どうにか信頼してもらえるように無理に取り繕って…… 頼りがいのある母親なんて程遠く、これまで通りのいつもの私だった。


 午後のサンフランシスコの街を初めて息子と二人きりで歩く。とりあえず、食料を調達しに出てはみたものの、気怠さも相まって何を話せばよいのかは分からない。
「親父は、いつ再婚したんですか?」
 当たり前の質問だった。突然、見ず知らずの母親と名乗る人物が現れれば私もそう尋ねたに違いなく、ましてやその年頃の私であれば困惑しただろう。でも、出会った当初のぎこちなさも感じさせない今のアツカネは、質問をする声のトーンや雰囲気からも全く動じていないというか、どこか鈍感というか、やはり、アメリカに来て彼女の家に長期間居座るだけの図太さがあるとも思った。
「あなたがアメリカへ行ってしばらくしてから…… きっかけというか、理由はちょっと複雑なんだけど……」
「話しにくかったら、また今度でイイですよ」
 また妙な会話になってしまったと反省しながら、この一番重要な内容の後に続けるべき話なんてどれも浅はかに感じるのは明白なので、こんな時の切り出し方も分からぬまま、私達はマーケットまで無言で歩き続けた。この辺りが初めてだったアツカネは道中の街並を珍しそうに見回していて、それは幸いだった。ここが日本の見慣れた風景だったとしたら、私一人が勝手に重圧を感じていたことだろう。

 マーケットは賑わい、店頭には陽をたくさん浴びた色とりどりのカリフォルニアの果物が陳列されていた。オレンジを手に一つ取ると、はち切れんばかりの身は正に生命力の塊といった感じで、これを食べれば元気が貰えそうと、アツカネが持ってくれていたかごの中へといくつか入れる。
「何か食べたいものはある?」
「好き嫌いないんで、何でもいいですよ」
 ただ遠慮をしているだけなのか、それとも、食事に対して無頓着なだけなのか分からなかったけれど、私には説明しておくべきことがあったことを今さら思い出した。
「初めに言っておくべきことがあったのだけど、私は肉も魚も乳製品も食べないヴィーガンなの。でも、あなたのお父さんはそんなこともないし、もちろん、私は自分の主張をあなたの家へと持ち込む気も無いから、あなたも遠慮せずに好きな食べたいものを言ってね」
「じゃあ、肉、ステーキが食べたいかな」
 早速、血気盛んな若者らしい答えが返ってきた。肉のコーナーで、アメリカ的なズシリと重く噛み応えのありそうな大きな赤みの肉を手に取ると、かごの中へと入れた。

 二人して両手いっぱいの袋を抱えてマーケットを後にする。これだけあれば一週間は持つだろうが、果たして、いつまで私はこの街に居るのだろうかということが思い浮かぶ。そして同時に、私はアツカネが見つかったことをまだ日本へ連絡していなかった。
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