2004年8月1日 [ 4 ]

文字数 2,821文字

 幼い頃、型にはまらない考えがあんなに溢れ出たのに、今は蓄積した知識と経験が不自由でつまらない自分を作り出していることに少し悲しくなった。だけど、永遠に子供のようなままというのも困ったもので、大人になったことで私はこうして今ここに居る。それはサンフランシスコといった地理的なことではなく、人生においての現時点での到達点。そして、私がこれからどこへどう進むのかは、今が常に決めることだ。私は母であると同時に蛾であることに気付いた。こんな私なんかでもいつか飛べるのだろうか。飛べれば、これから先、果たしてどこまで行けるのだろうか。


 蛾の部屋から出てみるとロビーにフレッドの姿は無く、外の通りにも人っ子一人車一台走っていなかった。そして、やけに静かだった。また夢でも見ている気分にも思えたが、確かにこれは現実で、私の思考も母と蛾について想い始めていたし、何よりも、あれ程もやもやしていた悩みは少し解消されているようだった。これまで私が見ていたものは前後左右、その程度で、絶望や憧れを抱き見上げることがあっても、決して見下ろすことは出来なかった。でも、私の眼は今や高い所から、過去の不自由で限界を感じていた私に気付き始めているのかもしれない。
 これまでの私なら、誰も居ないこの状況に恐れおののき、もしくは困り果て、慌てて自室へ逃げ込んだかもしれない。でも、今の私は、全てを確かめたくて、真っ直ぐロビーを抜け、外への扉を開けた。街の雑踏がそこにはちゃんと存在し、こちらへと歩いて来る人、走って来る車もあった。私は何かと勝手に小さく自分の世界はこうなんだと、この世を都合よく信じきっていた。昔、志摩で、これまでの自分が半分どこかへ行ってしまい、新しい半分の自分が入り込んできたように感じた時は、平面の領域をイメージすることしか出来なかった。過去と未来や狭い現実の中の私だ。しかし、世界は、いや思考は縦にも伸びていて、そこへ想いが届かない私には関係の無い領域、憧れだと勝手に決めてしまっていたのかもしれない。現実にはもちろん飛べない私だが、見上げた空へ私の意識を送ることが今なら可能なのだろうと思える。ポケットに手を突っ込むと、そこには何枚かの紙幣と硬貨があった。まだ、陽の暮れていない街へ一歩踏み出した私は、以前行ったあのカフェへ行ってみることにした。


 なぜ今、あのカフェ『トリエステ』へ行くのか。これといった理由はないけれど、サンフランシスコへ来てから、もう一度行きたいと思えた場所だったからだ。今は部屋に独りで居たくないし、そして珈琲を飲みたいという単純な理由もあった。さらに、何かがこの瞬間の私を惹きつける…… これは正しく直感と言いたいが、何だかピアノのお株を奪うようなので遠慮して、私らしく、何となく流されてあそこへまた辿り着くんだと思い直したりした。もしかしたら、これも蛾ぽいのかもしれないなんて、そんなことを考えながら歩いていると、いよいよトリエステへと近付いてきた。陽が完全に沈む少し前の薄紫色に染まった街に、煌々と光を放つトリエステ、惹き寄せられる私。

 あの日の早朝とは異なり、カフェの賑わいは店の外にまで溢れかえっていた。歩道では明らかに自前の椅子を置いてくつろぐフィッシャーマン帽をかぶった白い髭面の老人や、自転車にまたがったまま小さなカップでエスプレッソを飲む若い黒人の男、店の前に駐車中の車のボンネットは即席のテーブルと化し中年の男女が何やら熱い議論を交わしていた。他にもカフェなんていくらでもあるのに、ここへこうして人が夜な夜な集まっているのは、何よりトリエステが愛されている証拠だった。珈琲が美味しいのは当然として、何が人を惹き付けるのだろうか。
「すみません、アメリカーノを一つ! ここで飲むわ!」
「ヘイ! 見ての通り、椅子なんて一つも空いてないからな!」
 人混みを掻き分け、入口側のカウンターへ身を乗り出し、やっとのことで注文を伝え支払いを済ませると、イタリア系の顔立ちの店員の男が私へ忠告を残し、エスプレッソマシーンの前で忙しなく働く。そそくさとカウンターの隅の方へ退却した私は、自己主張がないとやっていけないアメリカでは珈琲を頼むのも一苦労だと思った。でも私は今、どうしても珈琲を飲むと決めている。
 渡米後、どんどんぼんやりとしていっていた私の眼が、今はやけにクリアになっていた。悩みは確実に体調へ影響を与えていて、それは決して無くなった訳ではないが、アツカネと明日にでも話しをして私は先へ進むことにした。帰国するまでに片付けなきゃならないのであれば、もういっそのこと早い方がイイ。
 頭の中を整理しつつ店内を見渡していると、外にまで人が溢れかえっている理由がよく分かった。店員の言った通りで席なんて全く空いていないし、並んだテーブルの間に立って話す人達だっている。むしろ、このカウンター端の奇跡的に空いていた人一人分の空間が、とりあえずはちょうどイイとも思えた。まあ、トイレに近いのは少し気になるが…… とにかく私は今、ようやく自分の為にサンフランシスコの渦の中へと飛び込んだのだった。
「日本人のお嬢さん! アメリカーノ出来たよ!」
 日本人という掛け声に振り返ると、さっきの店員が私の方へとカップの乗ったソーサーをカウンター越しに差し出していた。
「ありがとう、それにしても、なぜ私が日本人だと分かったの?」
「俺の客を見る眼、いや女性を見る眼と、豆の焙煎具合を見る眼に間違いはないさ!」
 満面の笑みでそれだけ言い残すと、店員は忙しそうにエスプレッソマシーンの定位置へと戻り、すかさず次の注文に取り掛かった。

 勢い任せに手ぶらでやって来た私は、手持ち無沙汰に熱い珈琲をちびちびと飲みながら、相変わらず店内を見渡していた。英語はもちろんのこと、聞き慣れない言語も時折聞こえてくる。年齢もバラバラのグループ、難しい顔をしながら独りで本を読む人、中にはタイプライターを叩いている人さえも。様々な顔が色々な表情をしていて、思わずニックネームを付けたくなるぐらいに皆個性的だった。私はカップを鼻元へ近づけると、珈琲の香りを嗅ぎながら眼を閉じた。人々の声やカウンター内の仕事の音が耳元で入れ替わりながら、次々と押し寄せ、そして去って行った。視覚情報が無くなると、どこかへ繋がっているような錯覚を起こさせた。見えるものだけがこの世の全てではなく、現在は、いつでもどこへでも通じているということだろうか。遠い所から懐かしい記憶がやって来るような気分に浸っていると、突然、店内に女性の声が響き渡り、詩を朗読し始めた。


 深い夜
 私が居るのはあなたの世界
 私達は蝋燭の炎を共に眺め
 窓から入り込んだいたずらな夜風が
 頬を撫で
 髪を掻き分け
 炎を揺らした

 私は待っている
 闇の向こうからの来訪者を
 あなたは知っている
 全てが変わり始まる
 その時を
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み