2004年8月1日 [ 5 ] 

文字数 1,754文字

 女性の声に驚いた私は閉じていた眼を開きかけたが、それを無理やり止めた。それは、眼を閉じていた方が、この場をリアルに感じたからだった。店内のざわめきが徐々に静まり、やがて店員達の働く音だけを残し人々の声が消えると、皆が一点に集中していることが分かった。朗読をする圧倒的な声の支配力も凄まじいが、そこへ向けられた他の人々の集中力も驚異的で、ここに居る人々それぞれの個の力だろうか、ごちゃごちゃとしていて歪でありながらもトリエステは一つの巨大なエネルギーの塊のようだった。しかし、個は決して慣れ合うこともなく、いつまでも個のままだった。私は、それにアメリカという国の強さを感じた。そしてまさに、私もそんなアメリカの中に居たのだった。
 詩に耳を澄まし、時の調べに身を委ねる。ヴィンテージ楽器のように丸く味わい深い彼女の声は、決して無理のない抑揚を伴いながら言葉を目覚めさせ、ただのカフェだった空間を塗り替えてゆく。ここは彼女の詩の世界、いつしか私達もその世界の住人となり、彼女の紡いだ言葉が心に迫り来る。私の中へと少しずつ入り込もうとする彼女の存在は、普段、他人に見せたくないような深い所へと隠した私や記憶を探している。


 やって来ない私達の友達
 始まらない物語
 あなたが微笑むたびに
 私は不安になる

 私は待っている
 闇の向こうからの来訪者を
 あなたは待っている
 全てがきっと変わり始まる
 その時を


 私にとって心を締め付けるような詩だった。今の自分を決して後悔している訳ではないけれど、だからといって、これまでの人生全てを肯定できる訳も当然なく、曖昧で矛盾や言い訳ばかりしている私と向き合っているようだった。それでいて、私は自らを変えることなく、ただ明日を待っていることの繰り返し。私は他人から救われていて、私は他人を救ったのだろうか。ただ享受するだけして私は助かり、何も知らず生きてきたのだろうか。それとも、こんな私でも苦しんだことはあるのだから、これから先は、もう苦しまなくてもよいのだろうか。彼女の詩は、私の奥底にあるとんでもない扉を開けた気がした。そう、自分でも気付かなかったような扉を。
 私はこの場に立っていられそうにもなく、幸いにも空いていたトイレへと慌てて駆け込んだ。そこは階段の傾斜の下に作られた歪な形の赤く彩られた小さな空間で、洗面台の水道水に触れることで私は気分を落ち着かせ現実へ戻ろうとしたが、流れ出た水は生温かった。

 トイレから出るとカフェは元の賑わいを取り戻し、むしろ、より湧いているように感じた。私の定位置だったカウンターの端には冷めた珈琲が忘れられたようにぽつんとあり、口に含むと、これも生温くなっていた。だけど、これこそ人が生きたている時間そのものだった。いつまでも同じではなく、また望むものが手に入るとは限らず、それでいて、この瞬間は私なんて関係もなく、時が強い力で世界ごと牽引してゆく。とてつもなく巨大なものを連想させた彼女の詩は、過ぎ去ってしまうと温かく、優しくも思え、独り勝手な想像に押し潰されそうになっていたことに私は何だか可笑しくなってしまった。
 思い返せば、似たような感覚を私は知っていた。それは、初めて聴いたあのピアノの演奏によく似ている。危うさを伴いながらも、それは優しさの裏側をすり抜けているのだった。私は、彼女の詩にも同じような解釈をすることで、今の私を保つことが、とりあえずは出来そうだった。そして、ここはアメリカ、このトリエステも、サンフランシスコの夜も、明日も、帰国する日も、全ては経過する通過点で、果ても分からない大陸を西へと旅した彼らのように私もまた、海を越える日を迎え、どこかへと向かうのだろう。今の私なら、多分大丈夫だと思う。

 珈琲を飲み終えると、店を後にする前に朗読をしていた彼女へ言葉を伝えたくて、トイレの列に並ぶ彼女に声を掛けた。
「あの…… すみません、何て言えば良いか分からないけれど…… そう、ありがとう、あなたの詩は私の心に響いたの」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってて! ちょうど、この赤い部屋が空いたからさ。えっと…… 私が戻るまで絶対に待っておくこと! いいわね?」
 彼女は、そう言い残すと、扉を勢いよく閉め、赤い部屋へと消えていった。
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