1994年7月12日 [ 3 ]

文字数 4,729文字

 目覚めると嵐は夢でも見ていたかのようにとっくに過ぎ去り、高く昇った太陽に熱せられた車内はかなり暑く、私はまるで悪夢からの目覚めのように寝汗を掻いていた。緊張と興奮から昨夜はすぐに寝付けず、眼を閉じて聴いていた屋根を打つ大雨の音は、私の住んでいる屋根裏部屋を思い起こさせ、ここからはあまりに遠い家のベッドが余計に恋しかった。それでも五時間ぐらいは寝たのだろう、窮屈な座席に横たわる疲れ切った身体は正直で、ガチガチに固まっている。本当はまだ寝ていたかったが、暑さとこの身体は、これ以上、そうはさせてくれそうにもなかった。助手席の足下に転がる空き瓶、空のワイングラス、汗一つ掻かず黒い袋を大事そうに抱えながら気持ち良さそうな姿で寝ているピアノを見ると、全て夢ではなかったのだと改めて思う。

 重い身体を起こし外に出てみると、塵一つない爽やかな風と澄んだ陽光が、汗ばんだ皮膚をかすめ通り過ぎてゆく。短い後ろ髪を結わえていたゴムを解くと、髪をなびかせた風が襟足の湿気を一緒に連れ去った。
 辺り一面、見渡す限り視界を遮るものは何もなく、遠くまで空が青く広がっている。観光バスからぞろぞろと降りてくる賑やかなたくさんの人の声、嵐の中を夜通し走ってきた耳には新鮮にさえ感じる昼間の息遣いや生活がそこにはあり、所狭しとたくさん駐車していたはずの大型トラックは一台も居なくなっていた。

 トイレの洗面台の脇で一匹のひっくり返った蛾が一粒の僅かな水滴に捕まり、まるで溺れていくかのように翅をバタつかせもがいていた。私がそっと人差し指を差し出すと、蛾は指に脚を絡ませその身を翻し、何事もなかったようにその場に佇んだ。指先にはキラキラする鱗粉が残され、私はそれを丁寧に洗い流した。
 その後、洗顔をしながら鏡に映る自分を見て、元々薄化粧ではあるが落とせていないメイクのこと、疲れ切って寝てしまったので歯磨きをしていないこと、そして、服が臭くないか等、急に色々なことが気になり始め、売店で割高な歯ブラシセットを購入し、また鏡の前に戻ると、歯磨きをしながらぼんやりと昨夜のことを思い返した。蛾は、もう居なくなっていた。
 無くなったものと、新しく得たもの、まるで新陳代謝のように入れ替わる形のないそれぞれのもの、それと、どうにも落ちない汚れのようなあれこれ。私が死ぬ時、最後に残っているものは何だろうか。そして、これから先、どれ程のものを失うのだろうか。この思考に恐怖を感じることはなかったが、これが若さということだろうか。まだ、何も分かってはいないし、分かる日なんていつか訪れるのだろうか。シャカシャカと口の中で歯ブラシの歯を磨く音。五線譜も現れず、ただの音となった今、私は何を頼りに生きていくのだろうか。口を水でゆすぎながら、吐き出した白い液体に、これまで溜め込んできた様々なことが含まれて、排水口へと螺旋を描きながら消えていった。何となく昨夜見た蛾のことを思い出した。光を目掛けクルクルと飛ぶ、その軌跡を。
 口いっぱいに広がる安っぽいミントの香りは、正気を保ち、過去を断ち切るように強烈だった。

 戻るとピアノも起きていて、身支度を済ませると、私はパンダを走らせた。サービスエリアを出る前に入れたガソリンは、私が要求する前にピアノが何も言わずに全額払ってくれた。そして、何事もなかったかのように、気持ちの良い青空の下を窓全開で走る助手席の宴は再開された。
 夜と違い、昼間の高速道路はのんびりと流れ、行楽気分といった感じで、運転するには悪くなかったが、未だ教えられていない行き先のことが気に掛かっていた。今さら、引き返すことが出来る距離でもないのに、ピアノはもったいぶって行き先を言わない。看板に記された名古屋までの距離の表示が近付いてくる頃、前方に料金所のような場所が現れた。
「検札。はい、通行券出して」
 そんなことがあることも知らず、まったく用意をしていなかった私は、慌てて券を探そうとしたが、どこに置いたのかもすっかり忘れていた。焦る私をよそにサッと通行券を差し出すピアノの手が私の前を横切る。
「はい、で、どこまで行くのお嬢さん?」
「いーせーまーでー」
「ああ、伊勢ね。じゃ、気を付けて」
 差し戻された通行券を訳も分からず受け取ると、身体は無意識にギアを一速に入れ、ゆっくりとパンダは走り出した。二速、三速、四速、そして、トップの五速へとギアを上げていく最中、私の頭の中は「いせ」という言葉の他に何も考えられず、真っ直ぐ前を見据えてはいたが、その時、何を見ていたのかもあまり覚えてはいない。
「いせって、どこなの? 伊勢神宮があるとこ?」
「ピンポン! 三重県でございます。まあ、最終目的地はそこじゃないけど……」
 最後の方は何を言っていたのかよく聞き取れなかったが、とにかく、「三重県」という単語が今度は頭の中でグルグルし始めた。地理に疎かった私は三重県の性格な位置を知らなかったが、だからこそ余計にとんでもないところまで行くような気がしてきた。

 たった一本しかなかったジャズのカセットテープは、幾度かA面とB面を繰り返していた。さすがに聴き飽きた私は音を止めると、ピアノが袋の中をガサゴソしてカセットテープをいくつか取り出し、「替えるよ」と一言告げ、一本のカセットテープをオーディオに差し込む。スピーカーが歪んでいるのか元々がその音なのか、突然、ノイジーで轟音なギターと荒っぽいバンド演奏の洋楽ロックが流れ、ピアノは右こぶしを窓の外に突き出しながら大きな声で「ギャー」とか何とか言葉にならないような声で叫びながら酒に煙草に大忙しだった。こんな音楽もピアノは聴くのだと私は意外に思った。
 名古屋に入り、いくつか分岐する道を行き先表示の指示に従いながら、伊勢自動車道へと進んだ私は、初めて見る景色や地名、窓から時折流れ込む肥料の匂い、そして、夏の始まりを予感させる全てを感じながらパンダを走らせた。何もかもが新しい、これまでに経験したことのない世界。行き先を知ってからの私は、心配事が一つ無くなったからか、ピアノとのたわいもない会話もどこか気楽なものだった。そんな中、ふと思い出したのが、サービスエリアを出る時にエンジンを掛けてもラジオが鳴り出さなかったこと。そんな些細な心配事も、開け放った窓から猛スピードで後ろへ飛んで行ったのかもしれない。悩みや思考も、この速度では付いて来るなんて不可能だろう。

 伊勢西インターで高速道路を下りる際もピアノが料金を支払おうとしたが、手持ちでは少し足りなかったので残りは私が支払った。家に着いたら返すとピアノは言い張るが、少しぐらいの出費ならどうでもよい気分で、それよりも爽快な「今」を経験していることの方が私には重要だった。伊勢の陽光は、そんな私の気持ちを察してか、雲一つ無い空をより青く輝かしている。見たことのない明るい光の色彩が包む街並みにパンダを走らせるだけで、なぜか幸福な気持ちが湧き上がり、それだけで、ここまで来た価値があるようにも思えた。
 伊勢神宮方面へと進み、猿田彦神社の横を抜け、橋を渡り、トンネルを抜けると、そこは山の中だった。うっそうと茂る樹木の木漏れ日の下、片側一車線の道路は右へ左へとカーブが連続し、道の両側には苔むした土の緑と茶のコントラストが、ハンドルを切る一瞬きらめく視界に優しく映る。道の側には大きな岩がゴロゴロとした川が流れ、窓から入り込む風は急に冷たくなり、突然、前を走る車がセンターラインを越えるぐらい右に避けると、道の近くにいた二頭の鹿がこちらを不思議そうな眼で窺っていた。
「あっ、鹿やん! ハロー」
 あっという間に過ぎ去った鹿をサイドミラーの中に残し、視点を前に戻すと、ちょうど木々の間から差し込んだ陽光に反射する百日紅の白い木肌がギラリと光って眩しかった。家に置いてきた、まったく使っていないサングラスのことを思い出す。普段、あるものだって、ここには無い。あるのは、私の身体とパンダと調律道具だけ。これが、私の人生の全てなのかなと展開の激しい道を運転しながら考えていた。
「あっちへ、こっちへカーブばっかりやな、ミチヨ」
 狭い道にカーブばかりが続き、後続車は急き立てるように後ろをピッタリと離れない。カーブから直線、またカーブと変速しながらハンドルを回し、運転に忙しかった私の口からついて出た言葉は「そうよ、これが、私の人生なの!」だった。
「ああ、ミチヨ、それ最高!」と、ピアノは隣でケタケタ笑っていた。

 山頂付近のトンネルを抜ける寸前、私の視界は真っ白になり、一切の景色が消え去った。それは、ほんの一瞬の出来事だったのだろうけど、とても長く感じた。影と光の境目、眼を奪われ判断の付かない場所、何か特別な壁をすり抜けたような不思議な感覚。すぐに眼の前には青々とした木々が現れ、今度は下りのカーブが続いたが、ハンドルを切りながらも、時の瞬間を切り取る写真のように、それは鮮明な記憶として残った。
 ダム湖の上を渡る珍しい道を通り、ピアノの指示に従いながら進むと、さっきまで居た伊勢よりもさらに視界が明るくなった気がした。見るもの全てが眩しく、とくに、すれ違う車の純白色の鋭さは眼に痛いぐらいだった。
「ねえ、ピアノ、ここは、何て言う所なの?」
「志摩って言うねん、ようこそ、わが故郷へ」
 辺りの拓けた土地には家が所々見えるものの、まだ山の中のような景色が続いていた。だけど、どこからか磯の香りを含んだ風が流れてきて鼻孔いっぱいに広がる。
「海みたいな香りがする…… 不思議ね」
「だって、海近いで」
 もう何も驚くこともなかった。「ああ、私は海へ来たんだ。それも、知らない海に」、ただ、そう思うだけだった。
 人家や店が増え始め、街並みに生活感が溢れてくると、道は線路と平行し、よりここの暮らしが垣間見えた。魚に関する業種の看板や、観光関連の案内、青とオレンジの可愛い列車、通りを歩く人の顔も陽に焼けた健康的な印象を受けた。見るもの全てが新しく、知らないものばかり、夢を見ているようで、どこか懐かしく、未体験の感情が身体の内側で目覚める。そんな奇妙な心持ちのまま、助手席にピアノを乗せパンダは進む。
 ここが、この辺りで一番栄えている駅だというピアノの説明を受け、踏切を渡り、道なりに走ると、また景色が変わり、なぜだか分からないけれど、この殺風景な道がどこまでも続いていればイイのにと思った。のんびり、ただひたすらに真っ直ぐ走りたい。道をそんな風に感じることさえ初めてだった。どこまでも、どこまでも……
「そこの信号、右」
 右折をし、バックミラーに映った過ぎ去る世界が遠くなるにつれ、私は同時に終わりの予感がした。理由なんて探せば見つかるかもしれないが、直感でそう感じた。
 ピアノは、さらに脇へと逸れる小路へ入るよう指示する。茂みの中を突っ切るように引かれた道は車一台分の幅しかなく、やがてアスファルトの舗装もなくなると、木々が両側から覆い被さるように道の上にトンネルを作り、陽の届かない土の道に出来たぬかるんだ轍がパンダを大きく左右に揺らした。行き先へと導くように前を数匹の黒い蝶が舞い、いくつかのアップダウンを繰り返し、それらを抜けた先の拓けた場所に明るい芝生が見えた。
 そこにパンダを駐車するようピアノに言われたと思うし、実際にそうして車から降りて、一軒の家がそこにあるのも見た気がする。家のさらに奥には波もない穏やかな海が広がっていて…… でも、やっぱり私が感じたように、そこが終わりで、私はその後のことを覚えてはいない。
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