1994年7月18日 [ 1 ]

文字数 2,501文字

 この日は珍しくオサムさんが朝から出掛けず家に居て、三人で遅い朝ご飯を食べながら、のんびりとした午前を過ごしていた。
「そういえば、大王崎灯台見てきたんやろ、どうやった?」
「んー、何か他にない、初めて見る類のものだったかな。あと、変に思うかもしれないけれど淋しそうだった……」
「まあ、大王崎はまだ民家にも近いけど、灯台なんて人の近付かへん殺風景な岬に建ってたりするし、灯台守は日夜、数名の職員だけで巨大な海と対峙してるから、あの白いボディには孤独が染み付いてるんかもしれへんな……」
「ちょっと、カッコつけて詩的な言い方してるけど、口の端にパン屑付いてるから、むちゃくちゃダサいんやけど」
「えっ? マジで?」
「うん…… 残念ながら付いてるよ……」
「このバカの口の周りにはパン屑が付いてるんかもしれへんな……」
「うっさいねん、ピアノ! いちいちマネすんな! しかも、ちょっと声も似せてるし!」
 ここへ来てから、このひとときのような私の日常にはなかった時間が心から楽しかったけれど、いつか来る終わりのことが頭の片隅にうずくまっていたので、急に冷めるのも容易だった。
「そうや、パンダの故障したとこ分かったって連絡あったわ。部品取り寄せたら、すぐ直るって」
 そう、こんな風に。

 灯台に魅せられた私は、今日もピアノがオススメするもう一つの近場の灯台へ行くことにした。食事の後片付けを終えた私とピアノは、家に残るというオサムさんに見送られ黒パンダに乗り込む。あと数える程しか、こんな時間を過ごせないのかと思うと、エンジンを掛けるのがもったいなく感じる。車の速度は、今の私の思考よりも明らかに速かった。あのポーチの椅子に座って様々なことに想いを巡らしたり、もしくは、波の音をただ黙って聴いているのが今の私の思考の欲することなのかもしれない。

「はい、そこ右曲がって、しばらく走って突き当りを左」
 ピアノのナビに従い当たり前のようにハンドルを切ることで、私は簡単に何かを得ているような気になった。もちろん、目的地へ向かう為には当然であり、道に迷いたいわけではない。だけど、以前の私からはより遠ざかってゆく感じがする。それは昨日、英虞湾の夕焼けを見ながら連れていかれた半分の私かもしれない。これまでの人生で、これ程分かりやすく自分が変わってゆくのをまざまざと見せつけられたことなどなかったので、戸惑っているようにも思えるし、そもそも、そんな簡単に人が変わることがあるのかも確かではないので疑問に感じるのかもしれない。まったく答えがまとまらないのは、やはり車が速すぎるから…… そんなことを考えながら走る白日に照らされた堤防沿いの道は、霧のように幻想的な潮のベールが包み込んでいた。やがて走っていた道はどんどん狭くなり、急な上り坂を越え、昔ながらの住宅の間を蛇行する細い道の先に木立が現れると、目的地だった安乗崎(あのりさき)灯台へ辿り着いた。

 木々に覆われた駐車場に黒パンダを停めエンジンを切ると、またもや僅かな蝉の鳴き声が聴こえた。繰り返されるこの夏の断片が木漏れ日に混じり私を危うくさせる。ただでさえ半身の身体なのに、太陽も蝉の鳴き声も、この夏の全てをどう受け止めればよいのか。暑さのせいも少しぐらいはあったかもしれない。昂る感情を堪えながら松の間に眼をやると、広い芝生の向こうに青空を背にした白い灯台があった。私の心が静まる。眩し過ぎるその白さが、余計なものを焼き尽くしたかのように。
「ほら! あれが安乗崎の灯台やで! ここは四角!」
 四角の身体を持つ灯台は珍しいのだろう。確かに私の抱く灯台の粗末なイメージにもなかった。
 どこからともなく湧き上がる波の重い音、陽光を遮るものはない広い芝生の上を駆けてゆくピアノの後ろ姿、ノースリーブの黒いワンピースの裾ははだけて舞い上がる。野原を舞う一匹の黒い蝶のように。後を歩いて追う私は見上げた空に太陽を認める。東京で見る、あの太陽と本当に同じなのか疑う程、それは近くて大きく感じた。

 安乗崎灯台もまた、上れる灯台だった。受付のおばさんに元気よく挨拶をしたピアノと付き添いの私は、またもや無料で通してもらうことになる。
「ほんと、どこでも顔パスだよね」
「そりゃ、この辺じゃあアイドルみたいなもんやから!」
 自分で言い切っちゃうのが何ともピアノらしくて、これが人から好かれる理由なのだろうけど、比べなくてもいいのに、私は当然アイドルになんてなれないとか、人からも好かれそうにないとか考えてしまう。むしろ比べるのもおこがましくて、友達もほとんどいない地味で無職になろうとしている貧乏な独り者…… ああ、人生は前途多難だ。

 ここでもピアノは、大王崎でもしていたように灯台にペシペシと触れて挨拶をしている。この儀式めいた動作を私も真似してペシペシする。案の定、掌は白くなる。そして、お邪魔しますと灯台の内部へと入り、無心で階段を上り続ける。ここは螺旋階段ではなく、四角形の外観のとおり、中の階段も壁に沿って直角に折れ曲がっていた。灯台も二度目となると余裕が出てくるのか、何となく慣れた心地で、前回よりも細かいところにも眼が届き楽しみながら上っていたけれど、やはり灯台の上から外に出て見渡す水平線の景色は特別だった。

 眼下の岩肌に散る波の姿、これもこれまでの私が砕け散るように見える。ただ景色を見ているはずなのに、どうして志摩の光景は内面に迫ってくるのか。そして、どうして私を逃がさず捕らえ奪い取っていくのか。それも、全てではなく…… 突然、波の間に何か得体の知れない黒いものが動いたように見えた。眼の錯覚かと思ったが、それはウェットスーツに身を包んだ人だった。
「ピアノ、あれは何?」
「ん? ああ、海女さん」
 断崖絶壁の泳いでしか辿り着けなさそうな磯で、力強く迫る波と険しい崖に挟まれ、その人は黙々と作業をしていた。命懸けにも見えるその行為を、私は高い安全な所からただ眺めているだけだった。何が正解で、何が間違いなんてことはないけれど、少なくとも私には全く辿り着けなさそうな境地へと海女さんは潜っていった。
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