2004年7月23日 [ 4 ]

文字数 3,576文字

 二人で両手にたくさんのビニール袋を抱えながらクリサリスへと戻る道すがら、フレッドがいつになく真面目な口調でゆっくりと話を始めた。いつもお喋りなフレッドがお店では全く話をしなかったのも少し気に掛かっていたが……
「――アメリカが多民族国家なのはミチヨも知っている通りで、このサンフランシスコにも、とにかくたくさんの人種が住んでいる。さっきの彼らはきっと合法的にこの国で暮らしているだろうし、一人一人のヒスパニック系の人々は陽気でイイ奴らで何も悪くないんだが、急激に増加する移民に昔から住む人達は危機感を感じ始めているんだ。まあ、それこそ、アメリカ大陸の先住民族なんかは、もっと昔から今日まで、メイフラワー号が来た時からそんなことを感じているのだろうけど…… まあ、とにかく、これまでサンフランシスコはアジア人ともイタリア人とも上手くやってきたが、今はヒスパニック系の人々のことで頭を悩ましている。時間がいずれ解決してくれるかもしれないが……」
 何となくだけれども、フレッドの今の心境を知り、さらに旅行者が簡単に知ることの無い、この国の日常に私も立っている気がした。しかし、私に今すぐ出来ることは何もなく、フレッド、ヒスパニック系の人々、どちらの側にも立つことはなく、それこそ移民としてやって来た日本人すら遠くに感じるように、複雑な事象を前にした私は、ここで暮らさない限り、どこまで行っても異邦人で、ただ知ることと、これからの私の思考へ少しばかりの変化をもたらすことぐらいしか想像できなかった…… こういう時、私は時間を旅するように、記憶の断片が突然現れることがある。この話は曲に似ていた。一曲の長い終わらない音楽のようにも感じるし、もしくは、コンピレーション・アルバムのように、多種多様な種類の音楽が、アメリカという括りの中で並んでいるようにも感じる。先住民族のトラディショナルな笛の音から始まった音楽がキリストを讃えた宗教音楽を通過し、フォーク、ブルース、時には琴の音やオペラを聴きつつ、ジャズを産み、ソウルはやがてヒップホップへと昇華しながら、ロックが大音量で鳴り続けている…… 一連の思考の旅路を経て、私の頭の中には黒い雌馬がぽつんと立っていた。久しぶりに見た黒い幻影…… 私達は両手にたくさんの料理が入ったビニール袋を持って歩いていた。指に食い込むビニールの重みと、靴底から伝わるコンクリートの歩道の強固な質感が突出した感覚だった。重さと硬さ、生きる上でしばしば感じる不快。フレッドの声が話しの続きを語り始める。
「十代の頃の話だ。近所に仲良くなったメキシコ人が居て…… 歳も近い女の子さ、いつしか俺達と遊ぶようになって…… その子は学校には行ってなかったから、放課後や休みの日に一緒になってつるんでいた。その子、遊び道具は何も持ってなかったからスケボー、バットやボールを貸してあげて、その代わりといったらなんだが、スペイン語訛りの簡単な英語、まあ下手くそで文法もこんがらがった英語だな、それで一生懸命に遊びのアイディアを出してくれた。それは楽しい日々だった…… ある日、そいつの住んでいたアパートメント、いくつかの狭い部屋にたくさんの家族がひしめき合って暮らしていた場所に遊びに行っていたら、ちょうどその部屋に住む住人の一人がやらかし、不法滞在がばれて一斉摘発されるところに出くわしたんだ。その子は泣いているところを連行されていったが、俺は何もしてやれることはなかった。ただ、連れていかれるのを眺めているだけで……」
 陽は暮れかけ、街灯色に染まり始めたオレンジ色の世界を私達は無言で歩いた。フレッドが話したかったことは、その女の子のことだったのだろう。個人的な経験はフレッドの移民に対する問題をより複雑にしていた。そして、これはアメリカの中の一つの物語であり、より様々な語られることのないドラマがこの問題の裏側にはあるのだろう。指に食い込む重さは、あのおばさん一家の存在の重みであり、靴底の硬さは、このアメリカの意思なのかもしれない。そして、私の横を歩くフレッドが持つビニール袋の重みは、彼女の想い出の重量か……

 すでにロビーでは、私達の帰りを待ちきれなかった住人達による酒盛りが繰り広げられていた。そして、随分と遅れて戻った私達を見るなり、手から食料の入ったビニール袋を奪い取り、各々がアルコールしか入っていない空腹の胃を満たす為にメキシコ料理に食らいついた。フレッドは喚き立つみんなとは対照的にしばらくぼんやりと突っ立っていたが、やがて何も言わずとぼとぼと壁の中の自室へと入っていった。何も声を掛けることが出来なかった私は、幸い手の付けられていなかった「V」と記された容器とトルティーヤを何枚か拾い上げると、壁の前まで行きノックをしてから戸を開け中へと入った。
 初めて入った薄暗い室内は大きなソファー等が置かれ、リビングのようになっていたが、それよりも私はその異様な空間に驚いた。部屋の壁という壁が、ありとあらゆる蛾に関するものだけで埋め尽くされていた。標本、ポスター、絵画、漫画や雑誌の切り抜き、そして、壁の一辺全ては、かなり大きな本棚が据えられていて書籍が隙間なく詰められている。その中で何よりも印象的だったのは、「蛾」とそれだけ一文字書かれた掛け軸だった。漢字だからだろうか…… それもあるかもしれない。ただ、それとは違った主張、もしくは存在の力のようなものをそれは放っていた。
「変わったコレクションだろ? 全部、親父の遺産さ。このホテルの名前の由来は、これさ。『Moth Chrysalis \ 蛾の蛹』」
 奥の部屋からひっそりと現れたフレッドが呟くような小さな声で言ったが、私は何も返す言葉が見つからなかった。それは、さっきの重い雰囲気をまだ引きずっていたからか、もしくは、この蛾のコレクションに圧倒されていたからか分からない。しかし、そんな言葉を失ったままの私に訴えかけてきたのは、さっきとは随分と打って変わり軽くなった、両手に持ったままの食事だった。
「えっと…… ほら、私達の分の食事。もし、よかったら、ここで一緒に食べない?」
「ありがとう、ミチヨ」
 私達はソファーに腰を下ろし、ローテーブルの上に食べ物を並べたが、フレッドは全く手を付けようとはせず、それを見た私も手に取る気にはなれなかった。
「冷たくなる前に食べな」
 そう言い残すとフレッドは立ち上がり、また奥の部屋へと入っていった。しばらくすると静まり返った部屋に奥の部屋からガサゴソとした音が聴こえ、その音が止んだかと思うとフレッドは一枚の12インチのレコードとポータブルのレコードプレイヤーを手に戻ってきた。テーブルの上の料理の容器を横にやるとそこへプレイヤーを置き、プラグを延長コードに挿し、大事そうにジャケットの中からレコードを取り出すとターンテーブルの上へと静かに寝かせ、回り始めたレコードの上へと針を落とした。
「あいつが連れてかれて、捜査員も引き上げ誰も居なくなった部屋で立ち竦んでいると、安全を確認した近隣の奴らが早速、住人の居なくなった部屋へと押し寄せ、勝手にありとあらゆる物を持ち出し始めたんだ。俺は…… ただ、その光景を黙って眺めていることしか出来なかった。だけど、そんな中で、このレコードが眼に入った。その数か月前、あいつは親父にねだって、この欲しかったレコードを買ってもらったんだと喜んでいた。貧乏で明日のことも分からない生活の中でレコードなんて贅沢品…… いや、無用の長物さ。そして、俺がその時、手にしたレコードはシールドだった…… つまり、新品の未開封。そもそも、あいつの家にはレコードプレイヤーなんてものは無かったんだ」
 ブツッという音の後に質の悪いモノラルのスピーカーから流れたのは鳥のさえずりとピアノのソロ、その後に続くのは、陽気なラテンのリズムに乗せたどこか哀愁のある歌声……
「ホウ…… さあ、食べよう。すっかり冷めちまったな。でも、美味そうだ」
 レコードのジャケットには大勢の笑顔の男達と「MATECANA ORQUESTA \ que bueno!」と印刷されていた。ラテン語の歌詞は全く分からなかったが、曲のサビで訴え掛けるように繰り返される「Gracias Amor \ ありがとう、愛する人」という簡単なフレーズだけは理解出来たし、フレッドの一連の話を知った今となっては、誰かの人生において決して忘れることのない大事な音楽があることを知った。
 ようやく手に取ったトルティーヤは冷たくなっていたけれど、口に運ぶとなぜだか初夏の草木を吹き抜ける風の香りがした。夏草の記憶…… おばさん自慢のサルサは、冷めていても本当に美味しかった。
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