2004年7月24日 [ 2 ]

文字数 3,174文字

 霧の立ち込めたサンフラシスコに朝陽が射し始める。空は晴れているのに視界は白くぼんやりとしていたので、カラフルな街中に綿飴を貼り付けたようだった。しかし、それも束の間のことで、歩いている内に霧は消え去り、見慣れた朝、街も夢から目覚める。
 この辺りのことは全く知らなかったので、とりあえず、ダウンタウンがある方へと伸びる大通りを歩くことにした。人や車も多く見掛けるようになり、私も次第にこの街の風景の中へと紛れてゆく。ただ他の人と違うのは、服の前面がまだ濡れていることだった。
 歩き疲れた脚は棒になり、膝は意思に反しガクガクと思わぬような動きをする。パンツのポケットの中へ念の為に入れておいた少額のお金でバスに乗ってクリサリスへ帰ることを考えていたその時、通りと交差する道のすぐ左の先に一軒のカフェの看板が見えた。棒は勝手にそちらへと向かう。店は開いていて、誘うように珈琲の香りが鼻を突く。バスを諦めた私は珈琲を選ぶことにした。

「ようこそ、トリエステへ。エスプレッソマシーンの準備は万端だ!」
 どこかで一度、会ったことのあるような顔の痩せたイタリア系の店員は、愛想よくまだ客が一人も居ない店内へ私を迎えてくれた。歩き続けてはいたものの、冷えた指や足の先は痺れていて、暖かい店内で温かい珈琲カップを手の中へ収めた想像が冷たく委縮していた身体と気持ちをほぐしてくれる。
「ええっと…… アメリカーノを一つ、ここで……」
「任せな、とびきり最高の一杯を淹れるからよ!」
 自分の声が、これ程遠くに感じたことはなかった。他人が囁き話しているのを側で聞いているようで、偽物の耳や口が不自然に顔へくっ付いている気がした。こうなると、さっきの珈琲の香りさえも、どこか遠い過去からやって来たようにも思えてくる。そんなことを考えていると眼の前で指をパチンと鳴らす音が聴こえた。
「ほら、出来上がったよ!」
 知らない間にカウンターの上に準備されていたソーサーへ白い湯気の立つカップが乗せられる。ポケットの中の濡れた紙幣を全てカウンターに置くと、私はソーサーをそっと持ち、なみなみと注がれた珈琲をこぼさないように店の奥の壁際の席へと向かった。
 席に着き、早速両手でカップを包み込む。じんわりとした温かさが掌へと伝わり、私はそのままの状態で店内を眺めていた。壁に掛けられた沢山の額縁の中の写真、朝陽が射す大きな窓に記された店名の美しいカリグラフィー、背後の壁に描かれたどこかの水辺のボートと人々の絵、テーブルに貼られたタイルのモザイク画、次から次へと人がやって来て、思い思いの注文をし、カウンターで談笑する朝のひととき。少し温度の下がった珈琲を口に含むと、私はさっきまで気が張り詰めていたことを今さら知ることになった。海の底から、やっとの思いで辿り着けた海面へと顔を出せた生きた心地、眼に飛び込む空と光の輝き、遠かった音の鮮明な響き。
 飲み干した珈琲カップをカウンターへ戻しに行くと、店員の男は私の顔を見てニッコリと微笑んだ。
「どうだ? 美味かっただろウチのコーヒーは? イイ一日をな!」

 旅程が延びれば来るだろうと思っていた生理が始まった。へとへとになりながらクリサリスへと歩いて戻り、まだ寝ているロビーの連中の横をすり抜け、真っ直ぐ三階のバスルームへと向かい、服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びている最中だった。そして、手持ちの数少ない服を洗濯しないといけないことにも気付かされる。頭から温かいシャワーを浴びながら、ずっとこのままでいたいと思ってみても、どうにもならないことは明白で、渋々自室へ戻ると、メッセンジャーバックのポケットに一つだけ入れていた生理用品を取り出し、不本意ながら一度着用した下着や服を着込むと洗濯物をバックに詰め込み、また、そっとロビーを通り抜け、近所で見掛けたランドリーへと向かうことにした。
 こういう時は何も上手く事は運ばないもので、完全に注意力は散漫になっている。ふらふらしながらランドリーへ辿り着き、自販機で洗剤を買おうとしてポケットに手を突っ込み、ようやくお金を全く持っていないことに気付く。思い出す美味しかった珈琲の味、午前の清々しいランドリーは甘い柔軟剤の香りで満たされ、黒人のおばさん達の楽しそうなお喋りや、ゴォンゴォン回る洗濯機や乾燥機の音が鳴り響く中、惨めに呆然と立ち竦む私…… また、同じ道を汚れたままの服を担いで持ち帰る破目になった。

 ロビーでは寝ていた連中も目覚め、フレッドが昨晩の宴の後始末を始めようとしているところだった。
「ホウ、グッドモーニング、ミチヨ! 今朝は早いね。それにしても、その荷物は一体なんだ? ホウ、一人で先に日本へ帰ろうとして飛行機に乗り遅れたか?」
 冗談交じりの言葉に、いつものフレッドを感じて安心はしたが、今度はこちらが体調不良と疲労と情けなさで、気持ちのイイ返事は到底出来そうにもなかった。
「洗濯をしようとしてランドリーへ行ったのだけど…… お金を忘れたの……」
「ホウ、そんなことか! その一階の奥がランドリールームだから使ってくれ! ホウ、機械はクウォーターしか受け付けないぞ、もし両替が必要なら、そこのカウンターのガラス瓶の中から勝手に両替をしたらイイ」
 もう一度、ランドリーまで行かなくてよいのは有難かったが、三階までの階段の往復がこの身には少々面倒だった。
「申し訳ないけど、フレッドお金借りれるかな? 後で返すから……」
「あの…… お金いるなら、あります……」
 寝癖だらけのアツカネが横から私に声を掛けると、財布を手に立っていた。
「ああ、ありがとう…… じゃあ、25セント硬貨を数枚貸してもらえる、かな……」
 硬貨を受取り握り締めると、そのランドリールームへふらふらゆっくりと歩いていく。気分は悪くなる一方だったが、どうにか洗濯機に服を入れ、その辺にあった誰かの粉洗剤を申し訳ないとは思いつつも勝手に拝借し、コインを投入すると、水が洗濯槽へ勢いよく流れ始めた。ようやく洗濯出来た安堵からか、私は置いてあった丸椅子に腰掛け、しばらく洗濯機のリズミカルな音をただぼんやりと聴いていた。
「あの…… 体調、大丈夫ですか…… 薬なら少し持ってますし…… もし必要なら薬局行って買ってきましょうか……」
 こんな私を見て心配になったのだろう、アツカネが声を掛けてくれたことは嬉しかった。それと同時にすっかりと忘れていたが、薬局というワードが買わなければならない生理用品のことを思い出さ、さすがにそれをアツカネに買いに行かせる訳にもいかず……
「心配させてごめんね。ちょっと休めば大丈夫だから。それより、フレッドに部屋を案内してもらって、三階の私の部屋の横だから…… それと、もう少しお金借りてもイイかな?」
 洗濯が終わるのを待ち、乾燥機へ濡れた服を入れコインを投入すると、アツカネに借りた20ドル紙幣で薬局へ生理用品と洗濯用洗剤を買いに出掛けた。そして、のろのろと歩いて戻ると乾燥も終わっていて、取り出した温かくてふわふわの服は、こんな今の私にとってささやかな幸せだった。そして、借りたままになっていた誰かの粉洗剤の箱に、さっき買ったばかりの同じ洗剤をたっぷりと継ぎ足してから、最後にもう一踏ん張り三階までの階段を上がる。

 部屋に着くと荷物を手放し、ベッドに倒れ込み、ようやく朝からの散歩がゴールを迎えた気がした。なぜ、散歩なんかへ行ったのだろうという後悔や、美味しかった珈琲のこと、倒れる前に聴こえた私の名を呼ぶ声のことが次々と頭の中へと押し寄せてきたが、最後は、せっかくアツカネに出会うことが出来たのに、全く彼とちゃんと話が出来ていないことが心配になった。ただ、そんなことを思っている内に、いつしか私は寝ていた。
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