1994年7月25日 [ 2 ] 

文字数 1,729文字

 ペン先が再び止まり、顔を上げ眺めた窓の外は暮れ掛けていて、今日、私の空に夕焼けはやって来なかった。期待していたけれど、いつもそんな上手く事は運ばなくて、見回したこの屋根裏部屋も静かに時を漂流し、今日の私にはそのことを考える方が必要なのかもしれない。

 少し早い一人分の有り合わせ晩ご飯、パスタを作りながら、私はテープレコーダーに吹き込んだ言葉を頭からもう一度聴き返していた。まだ、これから起こることを何も知らない私が苛立ち、情けない呟きを続けている。どれも過ぎ去っていった私の声だった。写真を残すことをあれだけ嫌っていた私が、これまで、なぜ声を残していたのだろうか。そんなことを考えながら、お皿に盛り付けたパスタにフォークを刺そうとしたその時、テープの言葉は途切れ、さらに同時に電話が鳴り響く。そういえば、家を出る時にも電話が鳴っていたことを思い出し、私は慌てて受話器を上げた。
「もしもし、美千代? やっと家に居たわ。心配してたのよ」
 母からだった。
「最近、どうしてるの? ちゃんとご飯食べてるの?」
 母からの質問攻めに合いながら、私は久しく聴いた母の声が、いつの日か記憶に漂い、思い返すのだろうと…… すると突然の音! 私の身体は驚きのあまり硬直し、音の主へとゆっくり視線を移す……
『庇の下、誘蛾灯の青い光が見える……』
 すっかり忘れていたテープレコーダーはまだ動き続けていて、何か私の知らない音声が流れ出し、恐怖と焦りを抱えた私は慌てて停止ボタンを押した。
「ちょっと美千代! どうしたの? 大丈夫?」
 一足遅れて額を伝って落ちてくる妙な汗。一体何なのか分からないまま、とにかく、母を安心させる為に、私は取り繕い、上擦りそうな声を咳一つ吐き出し整えた。
「もう、驚かせないでよー、何事かと思うじゃないのー」
 そう思っているのは私の方で、じっとテープレコーダーを見つめながら、母の小言を受け流していた。
「ところで、最近いっつも家に居ないようだったけど、イイ人でも出来たのかしら?」
 こういった感じの言い回しが好きになれない私は、ぶっきらぼうに「旅行に行ってたの」と簡潔に答えたのが完全に誤りだった。
「えっ! 何? 美千代、彼氏と旅行に行ってたの?」
 すぐに訂正し詳細を説明するものの、余計に怪しく疑われながら、それでも、そのおかげというのか、母から志摩に関する興味深い話を聞くことになった。
「志摩っていうと、懐かしいわね。お父さんと行った新婚旅行が伊勢志摩なのよ。しかも、後で分かったのだけど、もうその時あなた、お腹の中に居たの、そしてね――」
 母のすぐに終わりそうにもない新婚時代の話を聞きながら、私はこの奇妙な偶然について考えていた。
「――英虞湾がね、ねえ美千代? 聞いてる? ねえったら」
 まだ産まれる前だとしても、私も、あの海へと導かれていたのだろうか。
「聞いてるよ。英虞湾はイイ所、だね……」
「何よ! ちゃんと聞いてるなら、返事ぐらいしてよ! もー…… それにしても、美千代、あなた何か落ち着いたというか、変わったわね。そう感じるわ…… もう立派な大人なのよね……」
 母から掛けられた意外な言葉に私は戸惑いながら、まだまだ話が長くなりそうなのと、小っ恥ずかしさで、話を無理やり終わらせて電話を切った。
 変わったのかな、と思い返しながら、パスタをフォークで突き刺すと、冷めたパスタはガッチリとこんがらがったまま一つの固まりとなっていた。これもまあ、変わったと言われたところで相変わらずの情けない私を見ているようでもあったが、すっかり忘れていたあのテープのことを思い出すと、少し巻き戻してから恐々と再生ボタンを押してみた。
『庇の下、誘蛾灯の青い光が見える…… ハハは光の一点を目指し、全てを知る時、その身は燃え尽き、静かに横たわる……』
 それ以上に言葉はなく、音質の悪さ聞こえ辛さや雰囲気の違いはあったものの、それは、おそらくピアノの声だった。そして、「ハハ」とは母のことだろうか。しばらく考え込んでみたが、さっきまで話していた自分の母の顔がチラついて意味は分かりそうにもなく、冷めたパスタをほぐしながら、今頃ピアノは何をしているのだろうかと思い返した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み