1994年7月12日 [ 1 ]

文字数 2,913文字

「――今は何小節目…… まだ、先は長い。次の展開は…… 鳴らすべき音は」

 午前零時を過ぎた料金所で通行券を受け取ると、連なるオレンジ色の外灯がどこまでもワタシ達の行き先を照らしてた。最高速へ入れっぱなしのギア、車内に轟くけたたましいエンジンの音、道路の繋ぎ目を越える度にタイヤは跳ね上がり、ワイングラスの中の揺れるスコッチ、タバコの煙は迷うことなく窓の隙間へと吸い込まれ、なびく髪は心地良い。
 横目に入ったミチヨ、目尻に向かってシャっと細く引かれた眉、前をジっと見据えた凛々しい眼、鼻筋はスッと横顔の均衡を讃え、多くを語らない薄い唇が顔の全てを物語る。
「で、どこまで行けばいいの?」
「そうやね……」と、あやふやな言葉で濁しながら、過ぎ去るいくつもの街並み。ここには、どんな暮らしがあるんかな。ワタシに似た人は住んでるかな。そんな想像も、スピードと風と、経過する時が連れ去り、ただ音だけが、ワタシ達と共にある。
「まだ、まっすぐ。この音楽が終わるまで……」
「えっ? まだ真っ直ぐ? よく聞こえなかったけど、音楽って何?」
 忘れていたかのようにミチヨが、運転しながらオーディオへカセットテープを押し込むと、ジャズブルースが流れ出した。


 フィアットと外灯刻むリズムよドラムはハイハット
 ベース耳そばだて探る自分の居場所(スペース)
 ピアノ滑り込ませ打ち込むワタシ(ピアノ)
 ふふっ、と漏らした笑いもまた
 譜面(スコア)に記された得点(スコア)
 流れてゆくのは音ばかりじゃなくて感情もまた
 この降り出した雨が洗い流してくれる

「うわぁ、雨だよ…… 最悪…… 窓閉めて!」

 スチールの屋根叩くこれぞスコール
 ワイパー行ったり来たりミチヨ(ドライバー)ちゃっかり見たり
 トラックのスプラッシュわだち跳ねクラッシュはゴメンやね
 ダンプぼやけるテールランプ
 ビュービュー嵐ナイスビュー素晴らし
 ダッシュボードに落ちる雨粒のビート


 途切れた言葉遊び、空のグラス、生温い車内の湿った匂い、ゆりかごのような気持ち良さが、さあ眠れとばかりにワタシを誘う……
    『On the highway, the beat on the dashboard』


 えーっと、1994年7月12日未明、真っ直ぐって、どこまで行けばよいのだろうか。行き先を教えてくれないピアノは、さっきまで何やらメモっていた小さなノートとペンとワイングラスを器用に指で挟んで寝ている。全く勝手ね。ワイパーも追いつかない程の大雨の中を、大型車の車列に挟まれながら、この小さなパンダは一生懸命駆けているというのに。
 だけど、運転は独りが気楽でイイ。誰にも邪魔されず、どこまでも続く高速道路をひたすら進む。高速代は誰が払うのか、それは、もちろんピアノ。ガソリン代は、それも、もちろんピアノ。さすがに何も食べていないので空腹なんだよな、ねえピアノ、ご飯奢ってよね。もちろん、返答はない。ここがどこだか、暗くて何も見えない景色に紛れ、雨雲の下を西へ。
 ピアノのイントネーションからして行き先は関西だろうか。何にせよ遠い。冷蔵庫に残したもやしの賞味期限は今日までだった。昨日が、さっき過ぎ去った今日。煙草を吸おうにも雨、窓を開けられないので止めておく。喉が乾く、お腹は空く。確かに、私は家まで送る、と言ったが、家ってどこなのよ。

 しかも、これで少しは話の続きが出来るとか甘い考えで誘ったのに寝るなんて。高くそびえる防音壁の向こう側で人々は眠るが、夜間に走るこの大型車の孤独なドライバー達が眠りにつく時、どんな夢を見るのだろうか。家族の夢、恋人の夢、お金持ちになる夢、それとも仕事に追われる夢か。夜の高速道路にしかない言葉…… 誰が運ぶ夢。嵐さえも怯まない煤煙が天高く吐き出される煙突の先の赤いランプ。真っ暗な闇に浮かぶ赤紫色の光を帯びた街。また空腹の波が押し寄せる。髪はキシキシするし、シャワーを浴びたい。ガソリンはどんどん減って、どこかでサービスエリア入らないと。何してるのだろう私。暗闇に「1620KHZ ハイウェイラジオ ここから」とぽつんと灯る。ラジオのチューニングを合わせる。

「――こちらはJH日本道路公団です。午前二時五十五分現在の高速道路状況をお知らせします。東名、名古屋方面へ走行中の方に静岡区間の大雨による交通規制の情報です。御殿場インターから全線最高速度が五十キロに制限されています」
 そうですか、ありがとう…… 話す相手は一方的な口調で淡々と情報だけを私に告げる。時折、設置されている非常電話に、もしもし、もしもし、それも、繰り返し、繰り返し、同じことだけを…… 受話器の向こうには誰がいるのだろう。家を出てから鳴った電話も…… そういえば、駐車場出るときラジオ鳴ってなかったな…… おじさんが消したかな…… あっ、ちょっと、やばい、無いじゃない!

 「五線譜」が無い。無いっ! ピアノのことばかりに気を取られ全く気付かなかった私は馬鹿みたい。ずっと当たり前にあったものが、どこにも見当たらない。今さら気付くなんて…… ちょっと落ち着け私、運転中よ。余計なことは車を停めてからにして、いくつもの緑色の看板、知らない地名ばかりが過ぎるけど、サービスエリアはどこなの、焦るな、とイメージが強過ぎると、やっぱり焦る。まるでトイレに行きたい人の気分、そういえばトイレも行きたいかもしれない。あっ! 横断歩道のピアノのあれ! そうか、白黒、鍵盤か! 弾くところ、踏むところを選ぶ? いや、それより、どうでもいい、トイレ! ガソリンもない、トイレ行きたい、お腹空いた、煙草吸いたい、せめてガム欲しい、珈琲飲みたい、それは絶対ダメ、トイレが先…… トイレ行きたい……


 車が停まると、ミチヨは大雨の中を慌てて出ていった。サービスエリアへ入る少し前ぐらいから、ごにょごにょ言っているミチヨの声で目覚めたが「ない」とか「トイレ」とか連呼してて、それもテレコ相手に。ワタシはハンドル下のポケットにあったテレコに手を伸ばし、赤い録音ボタンを押してみた。
「庇の下、誘蛾灯の青い光が見える…… 母は光の一点を目指し、全てを知る時、その身は燃え尽き、静かに横たわる……」
 偶然にも、こんな真夜中の高速道路に妊婦の姿があった。傘を差しながらよたよたと歩くその姿、水滴にぼやけた窓ガラスは真実を映しているか、ワタシは、まだ寝ぼけていたのかも。テレコを元あったポケットに戻すと、しばらくしてミチヨは戻ってきた。

「あっ、起きてるの? ねえ、ご飯食べない? もう、お腹ペコペコ、昼前に起きてから何も食べてなくて。それと、そのあと、ここで仮眠、多分もう限界。そして私、分かったの。さっきまでごちゃごちゃしてて、だけど、なんか妙に頭に色々出てきて、今日の――日付けが変わって昨日か、その、なんて言ったっけ? あれ、そう、演奏についての上手い言葉よ!」
 なんかすっきりした顔で早口に言葉を詰め込んで喋るミチヨが「ますたー」のようにも思えたが、この後、ミチヨとワタシとの距離はグッと縮まった気がする。
「必要以上に音を置かないから、探していたのは、むしろ鳴らさないところ! だよね?」
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