2004年7月18日 [ 6 ]

文字数 2,973文字

「すみません! 誰か居ませんか? すみません、誰か……」
 繰り返してみても広い部屋に私の声がただ響くだけで応答は無かった。このごちゃごちゃとした異空間に静寂というものはなく、むしろ無視されているような拒絶感がある。奇妙な物品達の私を憐れむのか、それとも馬鹿にするのか、そんなこそこそ話でも聴こえてきそうな程、ここには存在感が至る所に漂っていた。
 少し待っていれば誰か来るかもしれないと、室内を歩き回りながら変な物を一つ一つ眺めていると、玄関扉から入ってちょうど正面にあった幾何学模様の木製の壁の前で私は立ち止まった。その古そうで味わい深い色合いに染まった木目と箱根細工のような模様、近くで見れば見る程に惹き込まれそうな魅力があった。同じ柄の全く無い一つ一つの模様を追って見ているだけでも骨董品を鑑賞しているように時間を忘れてしまいそうになる。古い物が過ごしながら越えてきた分の時間に私は囚われているのだろうか、そんなことを考えている時だった。眼の前の壁…… 壁だと思っていたそれは模様のアウトラインに沿って割れたように複雑な形でゆっくりとこちらへと動き出す。慌てて何とか後ずさりしたのでぶつからずに済んだが、それは壁ではなく扉だった。そして、薄暗い扉の向こうから一人の若い男が現れた。

 男は汚い白衣をまとっていた。身長は180センチを超える肉付きのよい巨体で、中世の絵画に描かれている天使のようなパーマ毛のブロンド髪は寝癖なのか四方八方に飛び散っていた。正に眠そうな眼をこすりながら私を見るなり立ち止まり、獣同士が突然の遭遇で対峙するような緊張感が張り詰める。互いに黙り、互いを観察していた時間は一瞬だったかもしれない。しかし、私は何かを言い出さなければと頭の中で考えている時間がとてつもなく長く感じた。英語のせいだろうか、いや、この変なホテルにこの変な男だったから当たり前のことすらすっかり頭の中から飛んでしまっていたからだと思う。
「ホウ、寝起きで頭がはっきりしないのですまないけど、ホウ、来る場所を間違えたんじゃないか、お嬢さん?」
 男は大きな欠伸をしながら髪を掻き毟る。そんな姿を見ていると確かにこちらが間違っているような気分にもなってくる。
「えっと…… ここはホテル・クリサリスですよね?」
「ホウ、そう、ホテル・クリサリス」
「じゃあ、合ってる」
 予想外だったのか、返答をする私の姿を足下からじっくりと舐め回すように見てから、ようやくお目覚めのご様子で言い放った言葉に私は驚いた。
「ホウホウ、正気か? こんな所に何の用があるって? ホウ、まさか泊まる気か?」

 普段なら決して電話なんて掛かってこない航空会社から、しかも丁寧な予約の連絡が入るなんていたずら以外にありえないと思ったそうで、しかも寝ていたところを電話に叩き起こされて不満だったと愚痴を聞かされながら、何度も確かめるように本当に泊まるのかと若い男は私へ尋ねた。さすがに、そこまで言われるとこちらも不安になるもので、心霊現象が起こるとか、とてつもなく汚いとか、あれこれ心配事が頭に浮かんできたので、とりあえず部屋を見てから決めさせてほしいと答えると、ようやく男は付いて来るように渋々した感じで言った。そして、カウンターの中に入り鍵の束を持ち出すと、ロビーの奥にあった上へと続く階段を怠そうに上がっていく。ここでようやく私は、妙な呪縛から解き放たれたように、一体私は何をしているのだろうかと思った。飛行機からずっと災難続きだったので、きっと感覚がマヒしていのかもしれない。

 部屋のほとんど、二階の全てを長期で貸し出し、つまりアパートのように人が住み、それとは別に確保している最上階に当たる三階の二部屋だけをホテルのように短期滞在者に貸し出している、そんなことを説明しながら若い男は階段を先に上っていった。こちらには顔も向けず鍵の束をジャラジャラと鳴らしながら先を歩く男の背中を覆う白衣には、ロビーに置いてあったソファーのように数字や文字が所々に書かれていて、長い間洗濯をしていなさそうな染みがたくさん付いていた。階段や二階の廊下に敷かれたモスグリーン色の年代物と思われる絨毯は、人が歩く中央部分だけ色は薄くなり生地は綻んでいる。手入れの行き届いていないあれこれに私の不安は増すばかりで、とんでもなく汚い部屋をあてがわれた場合、どう言って断ればよいのだろうかとか、新たに探さなければならないホテルのことが浮かんでくる。それに加えて、そもそも旅行道具一式が入った鞄を失い、近所へ買い物に出かけてきたような格好だったことも重くのしかかってくる。そんな沈んだ気持ちで三階へ辿り着くと、ホテルとして貸し出している部屋は二部屋あり、両方空いているから見て決めればよいと男は言い、一つ目の扉の鍵穴に鍵を差し込んだ。

 扉が開いて私は驚いた。意外だったとは失礼かもしれないが、おんぼろ小屋のようなものを想像していただけに、実物は随分とまともな、というのか、中々個性的な一室で、あらゆるものが見事にバラバラな色彩と形状を個々に主張していた。事務用の重そうな灰色のスチールラック、屋根裏のように斜めになった天井と四面の壁それぞれ異なった花柄や模様の入ったモダンな壁紙で覆われ、小振りなダイニングテーブルの上にはアンティークらしき卓上の鏡、ピアノ用の古いベルベットの椅子が一脚、床には安っぽいペルシャ絨毯風の敷物があり、何より目立つのが、どうやって運び入れたのかも不明な童話のお姫様が寝るような天蓋付の大きなベッド。そして、カーテンを開けると、南向きに開かれた窓からは、陽光が気持ちよく入り込んで来た。
「ホウ、へんてこな部屋だろ。この上の屋上はフラットなのに、ここの天井は屋根みたいに斜めになってるし、ホウ、それに以前長期で住んでいたゲイの黒人が、勝手にせっせと部屋を改造していて、ホウ、気付いたらこんな風になってたんだ。しまいには、飽きた、とか言って、ホウ、出て行きやがったし……」
「イイ部屋ね」
「ホウ、イイ部屋だって? ときどき、あんたみたいな変な客もいるよ。ホウ、もう一つも見るだろ?」
 隣のもう一部屋の方も悪くはなかったが地味な部屋だったので、心の中では一つ目の部屋に惹かれ始めていた。
「ホウ、トイレとバスは、三階専用のがここ。先月唯一泊まった短気な客がお湯が出ない、と喚き散らしたから、ちょうど修理したところだし、ホウホウ、絶好調だな。ホウホウ、くれぐれも二階のを使わないように。二階の奴らは決まったルールにうるさくってね。ホウ、やれ石鹸の位置が変わっているだの、ホウ、毎日十九時は俺が使う時間だのって――」
 バスルームも清潔で、金のシャワーヘッドや蛇口はキラリと輝き、白いタイル張りの空間に猫足の白い浴槽が可愛く置かれていた。
「決めた、泊まるわ。一つ目の奇妙な部屋に」
「ホウ、マジで?」

 後で一階に来るよう言い残すと若い男は鍵を置いて部屋から出て行った。一人になり窓を開けるとカリフォルニアの暖かい風がさっと花柄のカーテンを舞い上げ、拠点を確保した安堵からか、ベッドにダイブし横になると急に眠気が襲い掛かってくる。それにしても、あの「ホウ」ってなんだろうかと考えている内に、私は眠りに落ちていた。
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