1994年7月22日 [ 2 ]

文字数 4,535文字

「このピアノなんやけど……」
 ポリエステルの黒いカバーをピアノが捲ると光沢のある黒いボディーが現れたが、淋しげに見えるグランドピアノは、白日に晒されてもなお深い眠りの中にあるようだった。そっと鍵盤の蓋を開け、少し黄ばんだ白鍵を指先でゆっくりと撫でてみた私は、どうしてか、音を鳴らすのを躊躇い指が止まってしまった。眠りを覚ますからだろうか、それとも、部屋の調和を崩すからだろうか、もしくは、私の中の何かがそうさせるのか……
 大屋根に手を掛け押し上げたピアノの内部は比較的キレイだったが、弦は随分とくすんだ色をしていた。
「このピアノ、相当な年数このままだったんじゃない?」
「そう、かなりの間、調律してない……」
「これだと調律だけしても、すぐにまた音が狂いそうだし、本来なら弦の張り替えや、整音、調整もしないといけない状態だよ」
「そうやろな…… そやけど、調律だけでイイからしてもらえへん?」
「出来なくはないけど…… いいよ分かった、今出来る範囲でやってみるね」
「うん、ありがと」


 この家にある小振りの振り子時計は、ずっと昔に止まったまんま。この時を刻まへん時計の役目は、時を刻むん止めた時を示すだけにある。この家もまた同じで、主の不在と共に、とうの昔に過ぎ去ったところから今日までそのまんま。香りすら、あの頃と何も変わらへん…… 香りに鼻が馴染めば、時間は巻き戻る。ミチヨが鳴らす調律の一音一音も香りに乗じて、平面の記憶から立体的なアウトラインを立ち上げ、現時間と混在しながら、速度を上げて、より過去へとワタシを連れてく。廊下の軋み、鍵盤を打つ指先は、スリッパの底が打つリズム、木のハンマーを跳ね上げ、片足を上げ、フェルトが弦を叩き、滑らかな木で出来た階段の手摺に触れる手、低音から高音へと確かめるように上がっていく音の連続性、より上方へとワタシの意識を上げる階段、辿り着く全てが、この屋根裏部屋へと引き戻される。ここには思い出がいっぱいあって、原初の記憶から今日まで、いや、それだけじゃない、むしろ、ここって…… 懐かしさか。戻って来れるんか、ここまで。
 階下で鳴り始めた調律のピアノ音を屋根裏で聴きながら、探検ごっこを止めさせたのは纏わりつく蜘蛛の巣やなくて、未来をイメージしたから。はっ、と我に返って、急な階段を降りるのは下手やけど、手摺に掌を滑らせ、廊下をピアノ部屋へ急ぐ。調律は始まったとこで、邪魔したらアカン約束を守る為、部屋の隅で座布団敷いて、お口にチャックして、大きな背中を下から見つめながら、何度も繰り返し鳴らされる音を聴いてた。音楽よりもスリリングで、音が決まる瞬間を一緒に確かめるように、耳を立てて、音の不思議を探ろうとした。音を感じるのは、やがて自分が音になるってことで、そしたら音って、どこ行くんやろ。疑問を追い掛けるように部屋から飛び出して、玄関からピアノ部屋の外へ回って、そこから音を聴くことにした。部屋やと逃げ場のない音があちこちぶつかってボロボロになるけど、外やと聴こえ方は少し違う。澄んだ姿のまま、ちょっとずつ遠ざかるように家から離れていく。どこまで聴こえるのか確かめようとして、畑の畦道を後ろ歩きしながら、音がよく聴こえるように両耳に手を当てて…… すっかり音に気を取られてたワタシはつまずいて草の上に尻餅をつく。でも、そこでも音は聴こえた。すぐ後ろにあるのは林で、独りで入ったらアカンかったから諦めて、そのまんま草の上に寝転ぶ。雲が少し形を変える間、音は何度もやって来て、どこかへ行ってしまった。
 これ以上、ワタシは追い掛けることが出来ひんかった。


 音の狂った黒い雌馬が深い眠りの中で見る夢。それは、どのようなものだろうかと調律をしながら私は考えていた。中音域から上へと向かう音は清く薄い磁器がぶつかる細い響きを残し、低音域には宗教儀式を連想させる荘厳な空間が広がる。高音は天へと、低音は地を這い、音は音を呼び寄せこだまする。だけど、眠りを覚ますのは容易ではなかった。そもそも、それは思い上がった考えだとも思える。鍵盤を打つ指が激しくとも、弦を巻き上げるチューニングハンマーに力を込めようとも、物理的な結果がもたらすことに本来の調律作業以上の意味を感じなかった。この黒い雌馬も同じことを想うのだろうか。
 ピアノと出会い、音の深さを知ったばかりだった私に、早くも次の謎が立ちはだかる。目覚めている音、眠っている音もしくは死んだ音とも言い換えることは出来るかもしれないが、それを目覚めさす方法なんてあるのだろうか。とにかく、私は今、新しく知った音との寄り添い方で調律を進めたが、これだけでは足りない何かをさらに掴もうと、思いを込めながらチューニングハンマーの柄を握り直す。音は鳴る…… ここで、鳴っている。音が鳴る…… 今、鳴っている……

 結局、何も得られないまま調律を終わった。多少の整音はしつつ、調律自体に問題はなかった。ただ、確かな目覚めは訪れないまま、やはり足りない気がしてならない。そう思わせるのは、自分がまだ未熟だということであり、昨日まで手応えを感じていたことすら、ぬか喜びだったのかもしれない。途方に暮れながら、それでもそれが何なのか、この好機に私は必死に探った。しばらく俯き、立ち上がり、道具を片付けながら、近くから、離れてみたりもして、黒い雌馬との距離を感じつつ…… ふと、ピアノの気配が家にないことに気付く。この家が、現実から遥か遠い所にあるように思えてくる。静まり返った部屋の中とは対照的に、外では相変わらず蝉が鳴いていた。
 緊張が解けたのか、私はこの部屋を今さらながら意識し始めた。部屋は殺風景だったが、唯一、片隅にあった棚の上には、伏せられた写真立てがあることに気付く。その瞬間に私の思考は、調律や音と完全に断絶し、引き寄せられるように写真立てにそっと手を伸ばしていた。そこには、この家の戸口に立つ穏やかな笑顔の大人の男女と、二人の間でつまらなそうな表情をした幼い子供の姿があった…… 

 写真はかつての時を切り取り、残酷なまでに留め置いた空間を平面に写し出す。それを、私は幸せだと思うことが出来なかった。刹那は、そっと流せばよいと考え、自然に反し逆らうことを正しいとは感じなかった。現実主義的な理論が心地良く、決して戻ることのない時に未練を抱くぐらいであれば、前に進むことを考えることの方がよっぽど潔く、効率的であるとさえ考えていた。それでも、昔を懐かしむぐらいの多少の矛盾はあっただろう。ただ、物質へ明確に、いずれ過去となる今を写すことは、先の私を惑わすだけであり、それを見つめる未来を私は信じたくもなければ、そんなものを残すことすら少し嫌悪していたのかもしれない。
 今朝も、そうだった。これを幼稚な考えだと捨て去ることさえ出来ない私は、頑なに閉ざされた貝のような他人には理解されない窮屈な思考の中で永遠に生きていくのだろうとさえ思っていた。だけど…… 今、私は手の中にある一枚の写真を眺めながら、抑え込むことの出来ない愛情の揺らぎと、途方もなく漂う時を感じずにはいられなかった。
 しばらく立ったまま、手の中の写真を見つめていたようで、実際のところは、自分自身の心の動揺を凝視し、現在から過去、そしてまた現在へと記憶を往復する間が必要だった。今、言葉は何も意味を成さず、時と自然に溢れる涙だけが確かであり、また、私が追い掛けていたものだったのかもしれない。

 写真の中で唯一の男性は、おそらく、あの調律師のおじさんだった。そして、大人の女性の服をつまんで隠れようとしている幼い子供は、面影からしてピアノだろう。この写真は家族なのかもしれず、そうなると、私の知っている今のピアノと同じ眼をした残る一人は母親か…… もしかしたら、この三人の中で一番印象的に感じたのは、この母親らしき女性だったのかもしれない。茶系のマーブル柄生地のラフなワンピースに身を包み、艶やかな長い髪を耳に掛けた、見知らぬ人。写真の中の彼女は、私に問い掛けるような表情をしているようにも見える。そして同時に、思い続けることが自らの足を望む方へと向け、確実に歩んでいたことを知った。簡単なことではなく、偶然で片付けることも出来ない、これは奇妙な力の作用なのかもしれない。

 写真立てを棚の元あった場所へと戻そうとしたが、元通りに伏せて置くことが私には出来なかった。勝手に手に取り、眺め、どのような理由で伏せられていたのかも分からないのに、私は写真立てを立たせて置いた。独りよがりな行動、普段なら絶対に選択しない考え…… それでも私がそうしたのは、私が初めて調律を見て聴いた時の感情に似ていて、今ここへ導かれ辿り着いてしまったことが影響しているのかもしれない。そしてまたこの行動が無意識化で私を支配したのであれば、私の人生において新たな進む方向を指し示したのだろうか。
 写真は時を経て少し色褪せていたが、母親らしき女性の耳から吊り下がる真珠のイヤリングの白さだけは、淡い他の色よりも、歪さを引き立たせていた。


 音が止んで、随分と経った。それでもワタシは、畦道の草の上に寝転んで、空を眺めてた。雲は流れてるような気もするけど、じっとしてて、そのまんま。今のワタシと大して変わらんのは、ワタシがこんな眼で見てるから、そうとしか映らんのかもしれへん。一秒間は、ワタシの人生で何回あって、その間に、どんだけワタシの思考は進むんやろ。それで、あとどんだけ、こうして考えることがあるんやろ。
「ピアノ……」
 上半身を起こすと、ミチヨが立ってた。何となくやけど、音の長い旅は、もう終わるんや、って、そう思わせるタイミング。それはこんな感じ…… なんやろな……


「調律、終わったんや、ありがと」
 起き上がろうとするピアノに手を差し伸べた私は、掴んできたピアノの手の感触に、あの写真の中の小さなピアノの手を思い出した。今日までの長い年月を掴んでいるように。
「よいしょ、っと。で、どうしよか。帰るにも、まだ早いし」
「せっかく調律したんだから、あのグランドピアノ弾いてきたら? 私もこの辺りを自分のパンダで走ってみたいから」
 家の前で別れると、ピアノは草を掻き分け家の中へと入っていった。この光景は、そう遠くない日に訪れる実際の別れを誰か他人の眼で眺めているようだった。名残惜しさを振り払うようにパンダへ乗り込みエンジンを掛けると、やはりラジオは鳴るのだった。

 本当のところは、パンダで走りたい訳でもなく、どこかへ行きたい当てがある訳でもなく、ただ独りになりたいだけだった。あのグランドピアノの調律を終え、すぐ近くにあるはずなのに掴めない感覚、むしろ音なのだろうか、それについて落ち着いて独り考えてみたかった。
 行き先なんてないのにパンダを走らせ、過ぎ行く景色はそんな私のことなど知らず、夏草と呼ばれる地から離れてゆく。調律の余韻から逃れた所でパンダを停めると、私は煙草に火を点けた。今頃ピアノは、どんな曲を弾いているのだろうか。感情に重ねた音は、どこまで行けるのだろうか。
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