2004年7月31日 [ 1 ]

文字数 2,876文字

「じゃあ、お願いします」
 棺の上に散らばった白い花々は次々に投げ込まれる黒い土によって覆われ、やがて見えなくなった。対照的な色のコントラストは正に生と死のようだったが、植物と土という視点だと、やがてそれは再生するものにも思えた。再生…… なのだろうか、それとも違う、的確な意味が何かありそうにも思えたが、今はこれ以上のことを考えるのは止め、辺りを見回す。手入れの行き届いていない墓地は、遮るものは何一つ無い夏の光によって活力に満ち溢れた一面の芝が支配し、あちこちに点在する墓標も随分と長い間訪れた者の形跡もなく、ただ、ひっそりと佇んでいる。そして、私達を観察するように、少し離れた所にはビデオカメラの三脚がぽつんと置かれていた。他には見る物も感じることも特に無かった。
 黒々とした土の山が出来上がるとフレッドは、年老いた作業人達にお礼を渡し、彼らは土を掘る道具を担いで無言でこの場から立ち去る。後に残されたのはクリサリスで見掛ける面々と、あの夜、再会したダニエルさんとエディさんだけで、サユリは体調が悪いようで欠席していた。もうこれ以上、ここでは何も起こらないのに誰一人として離れる者はいなかった。
「こういう時、本来であればクソ高いワインを持参してくるもんだろうが、そいつはこのジョージが望まないし、いつものクソ安いワインをここに用意した。弔いだ、ジョージ」
 重く沈み込んだ真新しい白衣のポケットからフレッドはワインボトルを取り出すと、持参したオープナーで手際よくコルクを抜き、これまた持参していたワイングラスへと赤い液体をなみなみと注いだ。
「今日はサービスだ、ジョージ」
 今にも零れそうなグラスを土の山の上へと置いたフレッドは、そのままボトルからワインを一口あおると、隣に居たアツカネへと手渡した。そして、アツカネも一口飲むと、横に居たコーディ―へ渡し、ボトルはその場に居た全員の手を経て、最後はダニエルさんへと渡った。
「よし、それじゃ、帰るとするか。じゃあな、ジョージ。また気が向いたら来るよ」
 最後の別れを済ました私達が帰ろうとしてもダニエルさんはジョージさんの側から動こうとはしなかった。心配になって立ち止まった私の肩をフレッドが引き寄せ去るように仕向けたので、私は素直にそれに従った。だけど、去り際にもう一度振り返り見たダニエルさんの背中はやけに小さく遠かった。そして、ジョージさんが本当に遠い所へ行ってしまったという実感が、歩きながら遅れてやって来る。ジョージさんを見送るダニエルさんは、若かりし頃のジョージさんとの思い出に浸っているのかもしれなかった。彼らが未知の希望へと送り出した多くのホーボー達と同じように、動き出した列車に飛び乗るその後ろ姿を、いつまでも、その光景が見えなくなるまで。


 エディさんと別れ、クリサリスへと戻ってきた一行はロビーで酒盛りを始めた。クリサリスのフルメンバーはもちろんのこと、葬儀へ参加出来なかった顔見知りもやって来てより盛大になる。最初ぐらいは参加しようとその場に居た私だったが、どうしても独りになりたくて、赤ワインの入ったグラスを片手に人知れず自室へと戻った。
 鏡台の上へと置いたグラスは「カチリ」と小気味良い音を立てたが、それ以上の音は部屋に無く、静けさが連れてきた空想の中に、あの日、久々に見た五線譜があったことを思い出す……


 カレンさんが解錠した扉を開ける。突き当りのカーテンも無い窓から滲むような白色の淡い陽光が優しく包み込んでいる狭い部屋、窓枠にはめられた鉄格子が網のような影を落とす床やテーブルの上に所狭し並べ積み上げられた膨大なワイングラス…… 幻想的な光景から遅れてやって来て私達を襲う熱気と異臭。全てはスローモーションのような嘘みたいな動きで記憶に焼き付き、先に部屋へと踏み込んだフレッドの足取りはやけに重く遅く、部屋の中央でしばらく立ち止まったまま、私達の居た廊下からは見えない位置の何かをじっと見下ろしていた。そして、着ていた白衣を脱いだフレッドはその何かにそっと掛ける。何も言わず一向に微動だにしないフレッド、私の後ろからゆっくりとそっと静かに歩みを進め部屋へと入ってゆくダニエルさん、続くカレンさん。眼の前で起こる全てのことが追憶の果てへ逆流してゆくような不思議な時間の真っ只中、私の存在はすでにそれを思い返している今のこの時間にあった。


 警察の現場検証の結果、事件性は無く病死の類であろうとのことだった。後日、部屋へ片付けの為に訪れた際、フレッドが忘れ物をクリサリスへ取りに戻った少しの間、私は主の居ない部屋に一人で居た。あの日以来、カレンさんが毎日換気をしてくれていたようで異臭はほとんどしなかったが、建付けが悪い窓を開けると街の匂いを含んだ熱波が入り込み、扉を開けた時の光景が再び眼の前に広がる。

 あの日、私は部屋へは一歩も足を踏み入れなかった。出会って間もない親しい間柄でもない私が彼らの長い時間の中へ入るのがおこがましく感じたからだった。今、初めて入った部屋で初めて手に取ったワイングラス、グラスの底はどれも乾いた赤いワインの跡が小さな円を描いていた。

 あの日の深夜、警察がボディ・バックと共に引き上げたのを見送ったアパートからの帰り道、ダニエルさんとも別れ、フレッドは最後の光景のことについて私に話してよいかと尋ねた。おそらく、独りでは抱えきれなかったのだろう。了承した私は、黙ってフレッドの言葉を聞いた。
 壁際の狭いベッドの縁に腰掛けたまま後ろへと倒れるように眠る穏やかな表情…… 外出時そのままの小奇麗なしっかりと着飾った身なり…… 足下の革靴の側に転がる杖と割れたワイングラス…… 掌程の赤く染まったシーツのワイン染み…… そう言い終えたフレッドは、小さな一冊のノートを短パンのポケットの中から取り出した。パラパラと捲りながら、どうやら日記のような覚書帳だと言った。警察に回収されないように見つけたダニエルさんがフレッドに手渡したらしいが、ダニエルさんが持っておいた方がいいと一度は断ったフレッドに、ほとんど君のことが書いてあるから大切に仕舞っておけとダニエルさんは言った。


 部屋は大いなる存在を失ったが、その気配の遺産と共に辛うじて時間の流れに乗って、残された私達の記憶がまだどうにか現実に繋ぎ止めているようだった。しかし、片付いて何も無くなれば、私達の記憶の中にしか存在しない。あらゆる物をゴミ袋へと入れていきながら、私は人の死について考えていた……


 これまでと変わらないサンフランシスコの夏の夜、飲み干した筈のワイングラスの底には、ごく少量の赤ワインの層があった。どうやってもグラスに残るその僅かな水滴の集まりも、やがて時間の経過と共に赤い円の痕跡だけを残し蒸発してしまう。グラスに貼り付いた赤い円の中にジョージさんの記憶が宿る。人の記憶というものは、このグラスの底に残った液体のよう…… 眼を逸らせないグラスの底の赤い液体に、私は今更ながら泣けてきた。
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