1994年7月19日 [ 2 ]

文字数 2,288文字

 眼前に突き付けられていた数々の未解決問題は、海へ溶けたのか、太陽が焼き尽くしたのか、もう、どうでもよくなっていた。仰向けになり海に浮かんでいると、ただ紺碧の空しか見えず、耳元の波打つ水面の音、沈まないように動かす手足、必死で呼吸をすることしか考えられなかった。茜色の空がこれまでの私を引き裂き、半分連れ去ったのであれば、残されたもう半分は、この海にくれてやればいい。こうして何とか息をしようとしていることが、今の私の全てなのだから……

 肩で息をし、海水から浜辺へ立ち上がった瞬間にまとわりつく重力が、私に生きた心地を与えた。海の中では諦めれば簡単に沈んでゆく。これが身体の重さであり、無意識に死へ抵抗している実感の重みにさえ思えてくる。ただ生きているだけでも抱えなければならない身体と共に、指先や髪から滴り落ちる滴の後を小石の浜に残しながら、私は日陰まで歩くと、その場に倒れ込んだ。無風だった。波も静かだった。気付けば、音楽も止まっていた。


 月夜の晩に私は、石の浜辺を独り歩く。さざ波や、踏み出す足下で擦れる小石にあるはずの音は無く、身体もやけに軽い。これ以上どこへも行けなくて、ここに辿り着いたのは確かで、気が付けば黒い雌馬が私の前を歩いている。先へ行き過ぎた黒い雌馬は時折立ち止まり、首を後ろへ回すと私を確かめて、また静かに歩き出す。ずっと前から変わらず、これまでもそうだったのかもしれない。とぼとぼと歩く、前には黒い雌馬、私は幼い私で…… 遠くの方で二つの音がする。ブレていた音が互いに寄り添い、一つになり、また離れてゆく。そうだ…… いつも月夜の晩のことで、黒い雌馬の後ろを歩いている幼い私は、遠くから来た音が重なる瞬間をこの眼で見ている。いつしか漆黒の夜空には、いくつもの線が走っている。そう、これはピアノの絃、音に憧れて見上げていた景色。世界の音が鳴り響く夜、黒い雌馬と幼い私だけがいるピアノ弦が夜空に張り巡らされた海辺。


 ジリジリと焼ける熱を持った右足は日陰から出ていた。潮の乾いた肌は粉っぽく、窮屈な姿勢の身体はガタガタで、そこら辺に転がっている小石と変わらない。身体を包む怠さに抗いながら起き上がると軽い眩暈がして、しばらく私はじっとしながら、見ていた夢のことを思い返した。あの調律師のおじさんに出会った日から私は黒い馬を追い掛けていて、海へと辿り着いた…… そんなことを考えていたけれど、それ以上は思考が広がらず、もう、それだけで十分な気もした。そもそも明確な答えなんてないようなことをこれまで追ってきたのだから、どこかで終わりにしても…… 全ては私が決めることなのだろう。
 やがて、喉の渇きや疲れといった生きる上での足枷ばかりしか頭に浮かばなくなると、霧が晴れたように、蒸し暑い夏の海の光景だけが眼に飛び込んで来る。ゆっくりと立ち上がり、身体に付いた砂や潮を掃う。下着はすっかりと乾いていて、服を着た私は、変わらない海を尻目に、坂道を戻ることにした。

 洗濯物も私と同じですっかりと干上がり、時計を持たない私はどれ程の時間が過ぎたのかも分からなかった。衣服やタオルを畳みながら取り込み、裏庭がスッキリすると、今度はキッチンに溜まっていた洗い物を片付ける。そして、残された私は浴室でシャワーを浴びることにした。
 洗濯や洗い物と同じようにこれも繰り返し、詰まった考えや誤った思考を洗い流し、私は少し変わるのかもしれない。新しくなること、古くなること、それが同居している私の身体の中には様々な潮流が混在し、この世界を漂う流木が私なの、と身体を包むシャワーに打たれながら考えた。いつか、私が終わりを迎える日までに、また岸へと辿り着けばいい……


 ポーチで髪を乾かしながら、珈琲と煙草で過ごす。ビートルは無く黒パンダが一台ポツンと陽を浴びていた。することが無くて、また何か本でも読もうかと考えていると遠くから近づいてくるエンジンの音。私にはそれが嬉しかった。ピアノの声を欲していて、ただ、何気ない言葉を聴きたかったのだと思う。
「あっ、ミチヨいた!」
 着くなり早速、ビートルから降りてきたピアノは私の方へと駆け寄ってくる。
「おいっ、ピアノ! 少しぐらい運ぶの手伝えよ!」
 毎度おなじみになった二人の掛け合いや些細なことが以前の私には無かったことで、ここに居る私にとっての幸せ。重そうなたくさんの買い物袋を運ぶオサムさんや楽しそうなピアノの笑顔、今はこれに身を任せ過ごせばいい。
「オサムさん、手伝うよ!」
 椅子から立ち上がった私が車の方へと行こうとするのをピアノは両腕広げて静止する。オサムさんには悪いけれど、こんなことだって楽しかった。今晩も楽しく三人で過ごせればいいな、なんて感じたのも束の間、ピアノがニヤニヤしながら無邪気に言った一言が、いとも簡単に全てを吹き飛ばす。
「そんなんせんでもいいで、オサムなんてほっとき。それより、ミチヨ! 歌、録音しよ!」
 何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
「ウタって…… あの音楽の歌ってこと?」
「そう!」
「私が…… 歌うの?」
「もちろん!」
 予想外のところから飛んできた提案に私は面喰った。身を任せればいいなんて思ったことを撤回したいぐらい焦った。歌なんて学生時代の合唱以来歌った記憶もなければ、カラオケに誘われても頑なに行かないこの私が歌を歌うなんてありえない…… 私の幸せは、どこへいったのか…… また、こうして私はぐるぐると同じことを繰り返す…… いや、とんでもないところへ突き落された気分。ピアノって何なのよ……
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