1994年7月14日 [ 2 ]

文字数 3,029文字

 人の車を運転するのは緊張するが、装飾の違いこそあれ、ほぼ同じ車なので、その点は何も問題なかった。むしろ、純正から変更されているステアリングに至っては、運転のしやすさを知ったぐらいだ。
「とりあえず、今から行く家までの道順は言うけど、あとでミチヨが戻って来れるように地図にも記し打っとくな」
 ピアノをお稽古先のお宅に降ろすと、私は近くにあった空き地に黒パンダを停め、地図を広げた。初めて見たこの辺りの地形は人の腕のような不思議な形をしていて、長く湾曲した半島がぐるっと内海を抱え込むような形状をしていた。ただ、今のこの場所は分かっても、ピアノの家がどこなのかは全く分からない。とにかく、私は服を買う目的を果たすべく、賑わっていそうな駅の方へ行くことにした。


「ピアノせんせい、こんにちは!」
「はい、こんにちは」
 ミチヨと出会ったあの日以来、随分かけ離れていたワタシの日常はここにあった。
「じゃあ、先週やった曲、弾けるようになったかなー?」
 一生懸命弾いても、まだ小さい子供やし、ミスは多い。いくら単純で簡単な曲やゆうても、子供にとっては大人よりも譜面の世界は広大で、ようやく一曲弾けるようになった頃には、また新しい曲がやって来て頭と指をややこしくする。それでも、わけも分からず弾いている内に、自分の好みの音色に気付いて、いつしかルールの中で癖みたいなものが生まれる。
「あっ、まちがえた!」
「かまわへんから、続けて弾いてみ」
 子供のミスタッチは、音楽でドキッと驚かされる要素の一つだ。世に流れる練りに練った曲に感動や興奮を覚え、なるほどな、と関心はするけど、それほど驚きはない。プリミティブで、予想外の展開って、正に子供の行動みたいで危なっかしいけど、人によって微妙に異なる間違いにも、個性ってあるんやろな。
「ピアノせんせい、わたし、じょうずになった?」
「ほんま上手なったなー。じゃあ、新しい曲やってみよか」
 小さな手やと今はすぐに届かない次の音も、やがて大きくなったら簡単に指が届くようになって、曲の流れの中で、ただ通り過ぎていく音符…… この子が大人になる時、譜面の中の一つの音符のようにワタシも過ぎ去り、いつか忘れてしまうのかもな……
「はい、じゃあこの曲は宿題にするから、ちゃんと練習するように!」
「はーい、ピアノせんせいにきいてもらうためにがんばりまーす!」
 ワタシの為かぁ。誰かの為の音楽、もしくは、ワタシの音楽……


 どこに何があるかも分からない初めての町でうろうろしていると、思いがけずスーパーに辿り着いた。無料だった大きな駐車場の片隅に、一応、遠慮をしながら黒パンダを停めると、そこは鵜方という駅から近く、駅前なら何かあるだろうと私は辺りを散策することにした。
 ちょうど駅の裏手の道に小さな個人商店が並んでいて、女性向けの服屋が眼に付いたので、ショーウィンドウを遠巻きに覗いてみると、いわゆる、お年を召した方々向けの洋服が並んでいる。続いて現れたのは子供向けで、これもまた、当然違う。いくつか婦人服店があるけれど、どれも余所行きの装いで、値段はそこそこしそうな上、年齢設定も高めで、何よりもバブル時代そのままなデザインは豪華絢爛、ゴージャス、派手。こんな贅沢も出来ないような私でも、せめて着るものぐらいは選ばせて…… と、まあ、許容範囲のお洒落な服を、とは思いつつも、パンダが壊れた今、いつ帰れるのかも、そして、修理にいくら掛かるのかも不明なので、節約もしつつ、とにかく、服を揃えなければならない。
 先へ歩いていくと、道の角に三階建ての雑居ビルがあり、一階には八百屋と花屋が入っていた。そして、二階へと上がる階段の入口に掲げられた看板「レディースファッション コニシ」というファンシーな丸文字を私は見逃さなかった。

 二階のフロアには雑貨屋や本屋、他にも小さな店がいくつかあったが、私はコニシ目掛けて一目散に突き進む。「頼むからコニシ! 無難なお店でありますように!」と心の中で念じながら店へと着くと…… 私の願いは通じたように思えた。
 狭い店内にはギュウギュウに服が陳列されていて、年配のお客さんと店主らしきおばさんが話し込んでいる。とりあえず、私は手前から見て回ることに。こちらも、いつから売れ残っているのかさえ分からない時空を越えてやって来たような服があり、当時からの色褪せた値札がそのままぶら下がっている。その中から「これは、イイ感じかも!」と手に取った服を広げてみると、いらないワンポイントが入っていて、何とも悩ましい仕上がりになっていた。どれもこれもが良かれとばかりにデザインされた結果、少なからずそれらは私が望むものではなく、変な期待をしたばっかりに勝手に落ち込んでしまう。メーカーやお店が悪いわけでもないのに。
 店の奥には、白やベージュといった落ち着いた色ばかりの下着がずらりと並び、その一角は他に比べるとやけに照明も強くて明るかった。値段は、まあそれなりに安く、これでいいやと、何気なくポケットの中の財布に手をやると…… そこにあるのも、下着だった……
 確かに、いつも左ポケットに財布を入れていたので、そこに何かあれば財布だと思い込んで…… 勝手な思い込みと、自分の馬鹿さ加減に呆れを通り越して情けなくなる。誰かに見られたわけでもないのに、下着を持ち歩いている恥ずかしさで額から汗が急に噴き出し、とにかく、万引きに間違えられたらどうしようかと焦り急いで店を出た。どこからどう見ても新品には決して見えるはずもないのに。
 おそらく、ぎこちなかったであろう速足で黒パンダへ戻った私は、もう一度ポケットに手を入れてみたが、やはりそこにあるのは、今朝、洗濯紐に吊り下げられていた私の下着だった。「じゃあ財布は?」と、よくよく考えてみると、今日どころか、志摩へ着いてから一度も手にしていなければ、見てもいない。そうなると考えられるのは、おそらく、私のパンダの運転席にあるポケットだった……
 不運ばかりが見事に噛み合う結果に煙草でも吸おうと私は車内のポケットに手を伸ばした。もちろん、そこに煙草があるはずもないのに。


「じゃあねー、しっかり練習するんやでー」
「はーい、ピアノせんせい、さようならー」
 お稽古の家を出ると、道のすぐ先にミチヨの乗ったパンダがすでに停まっていた。
「お待たせ―、どうやった、何か面白いとこでも行った?」
 情けない顔でこっちを見るミチヨはワタシの質問には答えずに、とにかく、タバコを一本欲しいと言うけど、あいにくワタシも持ってなかったので、近くのコンビニへ移動した。

「なにそれ! じゃあ、何もせずに、他はどっこも行かず戻ってきて、あそこでお稽古終わるの待ってたってわけ?」
 事の顛末を聞かされ、赤面し気まずそうにしている正直なミチヨを笑ったらあかんのやろうけど、堪えきれずに豪快に爆笑してしまうダメなワタシ。
「もう、そんなん気にせんと相談してくれたらイイのに。ここまで連れて来たワタシが言うのも変やけど、遠慮はあかんでミチヨ!」
 こんな辺鄙な場所に住んでることもあって、買い置きの下着はあるから遠慮しんといてと言ってもミチヨはちゃんと買い取ると言い張るので、下着問題は、まあそれで解決。
 だけど、服まで借りて、もし汚したら悪いから何か安い服を買いたいと言って引き下がらないミチヨの為に私は閃いた。
「じゃあ、イイとこあるわ」
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