1994年7月23日 [ 3 ]

文字数 3,096文字

 二曲の録音を終えた私達は、当たり前のようにポーチへと集まり、家中の灯りを消したまま、闇夜に灯る蚊取り線香と三本の煙草の火先だけが、沈黙を取り囲む虫の鳴き声の中に赤く浮かんでいた。達成感と疲労感もあるのだろうが、この夏の夜の静けさには、もっと別の意味が潜んでいたのだと思う。口に出さなくても分かっていること…… 音は去り、曲が終わり、きっと初めから三人共知っていた。ここへ漂着することを。
 煙草を吸い終えた私は、灰皿に火を押し付け立ち上がると、暗くて顔もよく見えない二人に向かって声を掛ける。
「私、今から帰るね……」
 あれだけの音を放ち続けた後に訪れた反動の静寂は余計に深く、さらに私達がここに居て黙っているからこそ、辺りは一層森閑としているように感じた。虫達を除いては。

 家の裏へと回り洗濯物を取り込みながら、夜空に輝く星々と丸い月が眼に映ると、私の手は自然と止まった。この光もまた音のように時間を掛けてやって来た。止め処なく繰り返される光の放出、もしくは反射は今のところ止むことはなさそうだった。でも、いつかはこれも終わるのだろうか…… それよりも先に、私がこの世からいなくなる方が早いのは確実だった。遠い日、かつて夜空には星々と月があった、と記された、あらゆる人々の思い出を読み上げ不思議に眺める誰か…… 真空には音が無かったかな…… 科学の詳しいことはよく分からないけれど、音が無ければ、私も想いを光に託すかも…… 原初の人々の想いや、これから訪れるずっと先の様々な想いまで…… 写真への抵抗は、私の中から消え去っていた。
 何だか途方もない考えの入口に立っていた私は、洗濯物を取り込んでいる最中だったことを思い出した。パリッと乾いた洗濯物、些細なことだけど、やはりこれが私の一番身近な幸せで、同じことを想う人はきっとこれまで、いつの時代にもいたであろう。単純なことだけど、イイ一日を始める為には必要なものだから。

 身一つ、調律道具の入ったトランクだけでやって来た私だったが、寝ていた本の部屋に並べてみた荷物は少しばかり増えていた。全てをパンダに積んでしまえばよいだけだが、その行動の一つ一つが終わりへと近づいてゆくことに、私の動き、いや思考までもが少し止まってしまった。本当に帰る、という実感は湧き上がらないのに、帰る準備だけが淡々と進んでゆく。でも、そこが一致してしまったら帰れなくなるのだろうと、貰ったポストカードをトランクへ大切にしまい込んだ。
 部屋を出てキッチンを横切ろうとすると、奥のグランドピアノの部屋に居たピアノに声を掛けられる。
「手伝う」
 本の部屋へと入り、大きなビン玉を抱えて戻ってきたピアノとパンダに向かう。玄関を出て、ポーチを下り、芝生を歩くのも、あと数える程で…… 初めて来た時、ここで倒れ込んで、そして、また再び倒れ込んで、いつもピアノが助けてくれた。こんな私を本気で心配してくれて……
「ねえ、ピアノ……」
「アカンアカン、何も聞かへん」
 芝生の上にビン玉を置くと、ピアノは家の中へと戻っていった。


「ゴメン! 荷物運ぶの手伝わんと! これ急ぎで作ってて、ギリギリ間に合って、よかったわー」
 オサムさんが手渡してくれたのは一本のテープだった。
「とりあえず、今日録音したのをこれに入れてあるから。もちろん、完成したらちゃんとしたもん送るし、仮ってことで。で…… ピアノなんやけど、あの感じ…… 機嫌悪そうに見えるだけで、かなり落ち込んでるから、ミチヨさんは気にせんといてな。あとは、こっちでどうにかするから」
 多分、その原因が私である以上、気にせずというのも難しく、急に帰ることを切り出した自分のタイミングが悪かったのかなと、そんなことが頭をよぎる。でも、自分でしっかりと終わりを決めなければ、とくに今は……

 荷物も全てパンダへ載せ終わり、物理的に帰る準備が整ったところで、どうやって去ればよいのかが、いよいよ分からなくなってきていた。忘れ物がないか、家の中をぐるっと見渡していると、洗面所に置き忘れていた歯磨きセットを見つけた。こんな風に、時間を掛ければ掛ける程、もうすでに忘れていることや、新しく気になることが出てきて、いつまで経っても出発することが出来なくなってくる。終わらせ方は人それぞれであるならば、私は私のやり方しかなかった。
「はいっ! 玄関に集合!」
 驚いた顔で二階から降りてくるオサムさんと、そして、少し遅れてピアノは引っ込んでいたグランドピアノの部屋から出てきた。
「じゃあ、私は帰ります。お世話になりました。オサムさん、パンダのことや色々と細かいことまで大変助かりました…… ありがとうございました」
 勢いに任せ話し始めたものの、改めて、そっぽを向くピアノの横顔を見ると…… まあ、上手く言葉は出てこなくて……
「えっと…… 何だっけな…… 言いたいこと忘れたから、思い出したらまた来るよ」
「ふん、ミチヨまでオサムみたいにダメになってしもたわ」
「おいっ! その俺がダメ代表みたいな言い方!」
「えっ? ダメの親分じゃないの?」
「なんやねん、その親分って!」
「じゃあ、私はダメ子分だな」
「おいおい、ミチヨさんまで……」
「はいはい、ダメ達諸君、一足早い夏休み終了やで!」
 最後は三人で笑って締めくくれて、ちゃんと出来ているかは分からないけれど、ちょっとボケてみたりして、終わらせ方って一つじゃないんだってことを知った。


 二人に見送られ、パンダのドアを開けようとした時、一匹の蛾がふわりと私の周りを跳ねるように飛び、それは別れを惜しむ言葉を持たないものの振る舞いのようだった。眼で追い続けていたはずなのにパッと消え、スッと高く跳び上がったと思うと、より暗い木々の方へと踊るように消え去ってゆく。
「なんか、蛾もミチヨが帰るの嫌がってるみたいや」
「もう、そんなこと言って、余計に帰りづらくなるじゃない」
 運転席に乗り込みエンジンを掛けると、ちゃんとラジオは鳴って、エンジンの音と共に辺りの澄んだ虫の音を蹴散らしてしまう。
「これ、おにぎり作ったから、持ってって」
 ピアノが差し出した茶色い紙袋を受け取ると、ズシリとしてやけに重い。
「ミチヨさん、ピアノが作るおにぎりは、バカでかい黒々とした爆弾みたいなもんやから、気を付けてな!」
「アホ! そんなんちゃうわ。海苔なかったから真っ白や。でっかい真珠や!」
「大きな真珠なら、なおさら嬉しいよ。ありがとう、ピアノ」
 ギアをバックに入れ、ハンドルを目一杯切りながら転回すると、私は開け放った窓から二人に向けてお礼と、また会える日を楽しみにしていると告げた。
 ギアを切り替え、ヘッドライトを点け、前へと進み出すパンダ。サイドミラーの中に並んだ二人が徐々に小さくなってゆく。
「――気を付けてなー、ミチヨー」
 私の名前を呼ぶ声が聴こえると同時に、サイドミラーやバックミラーの中からも、夜の暗い木々が二人の姿を覆い隠してしまった。長いようで、あっという間だった日々が本当に終わり、私は独りパンダを走らせる。旅の終わりに向かって。


「なあ、オサム、調律師って、人も調律してるんかもな」
「ああ、その感じな、よう分かるわ」
 木立の中へ消えていったパンダの後ろ姿。音が還ってくる、それとも、記憶の中の音へ戻ってく。リアルタイムに聴こえる昔の音が、この先、同じように感じるとは思えへんし、そうなると音って、ひたすらどっかに進んでるんかもしれへん。そこには、色んな思い出が詰まってて、その音もいずれ響いてることに気付いた日、還って来るんやろな。
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