2004年8月1日 [ 3 ]

文字数 1,990文字

 窓もなく灯りも少ない間接照明の微かな光に漂う薄暗いこの部屋は、日中でも蛾が好みそうな夜のようだった。そして、ロビーとを遮る壁や扉も分厚く雪の夜のように静か。足下に敷かれた絨毯の上を歩く自分の足音さえも聴こえそうで、私は立ち止まったまま、しばらくその場から動けず、まず、この空間と一つになろうと考えた。この考えは音楽への私の解釈にも似ていて、音楽を聴く時、ただ音を感じるだけではなく、音を身体に取り込むというか、音と一つになることを心掛ける。もちろん、拒絶される音、私と全く合わない音もあるし、そんな音の場合、ただ私の側をすり抜けてゆくだけで、それ以上のことは何もなかった。そして、音のことを考える時、あの黒い雌馬のことを考えない訳にはいかない。今はもうさっぱり夢にも出て来ないし、随分と遠いところへ行ってしまったのかなとも思う。先日は珍しく五線譜を見たが、それはどこか以前と違うようで、鍵の開く音があまりにも印象的だったので、私自身が五線譜のイメージと結び付てしまったのかもしれない。とにかく、今は蛾に集中しようと大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。私の鼓動が落ち着くまで、眼を閉じながら。

 蛾に囲まれながら、まず始めにたくさんの蛾の中から自分の想像する蛾を探してみようと思った。それこそ数多とある種類の中から一匹を探すのは並大抵のことではないが、他にどうすればよいかも分からず、蛾のことなんて何も知らない私が考えられることなんて好きか嫌いかぐらいだった。
 壁に飾れた、たくさんの標本の額縁を丁寧に一つずつ見ていると、蛾も案外綺麗なのだと思った。派手で華やかな蝶ばかりが注目され、一見地味な蛾はあまり見向きもされず、むしろ不気味な存在として怖がられていたりもする。しかし、種類毎に異なる翅の模様は落ち着いた色調と温かみのある模様で、気品高く額に納まった蛾を一つ一つ見ていると、私は蝶よりも蛾の方が好みなのだと気付かされる。そもそも比較していること自体がおかしなことで、ちゃんとそれぞれの本質に向き合い、自身がどう感じるのかを知らなければならないが、ただ蛾の方が良いという認識、直感…… そんなことを考えながら蛾を眺めている内に結局は、また自分の悩みや心配事について考えていた。

 適当に本棚から一冊の分厚い本を手に取り、パラパラと捲ってはみたものの、図解の他は専門的な用語が並んでいて、私の英語力では辞書なしに理解出来そうにもなかった。本を元あった所へと戻し、今度は下段に納められていた大きなヴィジュアル書を両手で引き出すと、その重い書籍を腕の中で広げてみた。そういえば先日、アツカネもこれに似た蛾の本を見ていた。今となっては、あの日がやけに遠くに感じる。アツカネは、蛾の本を見ながら何を想ったのだろうか。本当の母親なら、そんなこともいとも簡単に分かるのだろうか…… やはり、私には分からない。そして、そっと本を元あった所へと戻す。

 一時間程、部屋の中で気になったものを見て過ごした。そんな中で気付いたことは、ここに居る標本の蛾達は、美しさの絶頂で時を止められ、天寿を全うすることを許されず、細く小さなピンによってその身を掲げられていることだった。その姿は、磔のようでもあり、どことなく宗教的な意味合いを感じさせられた。そう、キリストのように。野山を自由に舞うことが蛾にとっての最良であるならば、ここに居る蛾達は人の意識によって犠牲となったもの達だった。いや、それすら私達側の考えであるとするなら、ただの自然界における食物連鎖の一部分であることが最良とみなすのが正しいのだろうか。では、ジョージさんの死、いや人の死は、それらとは違うのか。また、よく分からなくなってしまう…… 立ち疲れた私はソファーに腰を下ろすと、対峙していた何千、何万という蛾達から解き放たれたようにぐったりとしてしまった。結局私は独り悩み、あれこれ考えたりして、またふりだしに戻って、ということを延々と繰り返すのだろうか。黒い雌馬のように一直線に突き進んで行ければイイのになんて考えながらソファーの背もたれに身を預け、両手をグッと後ろへ掲げながら、伸びをするように首を逸らし、そのまま後ろの壁を見やると、古びたポスターに大きく記された逆さまの「MOTH / 蛾」の文字が眼に留まった。
 じっと眺める逆さまになった「MOTH」の文字。逆だと本来の姿が直接的には眼に飛び込まず妙な雰囲気が漂う。何かに似ているけど思い出せず、しばらくそのまま眺めていたが、さすがに頭に血が上り、体制を整え、半身になってソファーに腰を掛け直すと、改めて「MOTH」の文字を眺めた……
「ああ…… 分かった。こんなところに居たんだね…… MOTHERの中に……」
 「MOTHER / 母」の中に「MOTH / 蛾」は存在していた。
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