2004年7月24日 [ 1 ]

文字数 3,640文字

 早朝、淡い目覚めと共に暗い闇の遠くの方から微かながら船の汽笛のような音が聴こえた。光がまだ届かない時刻、この部屋へ音だけが到達し、頭の中に残る余韻は、この世に響く嘆きの声のようで…… シーツに包まりながら、本当に汽笛なんて聴こえるのだろうかと考える。港町であることは確かだったが、まだ私はこの街の海をちゃんと見ていない。
 些細な疑問から始まった探求は眠気すらも吹き飛ばし、すっかりと目覚めてしまった。しかし、寝起きの脳は大胆に跳躍しながら、思考を突拍子もないところへと着地させる。それは、まるで夢の続きを見ているかのようで、過去の記憶がコラージュされた不自然な脈絡もない出来事をいくつか経由した後、昨晩のことを思い返す…… フレッドと食事を終え、おやすみを言ってからロビーへと戻ると宴は最高潮に達していた。言葉をほとんど理解できないはずのアツカネもコーディ―と仲良くなったようで、彼の音楽仲間連中と一緒に楽しそうにしていた。その輪の中へ私が入る必要もなければ、この場はむしろ放っておいた方が全ては上手くいくだろうと、私は誰にも声を掛けずにひっそりと自室へ引き上げ、シャワーを浴び、床へと就くといつしか眠っていた。
 時刻は午前四時を少し回ったところで、まだ肌寒かった。時刻と現実的な記憶と皮膚を刺激する寒さの感覚がズレていた思考の輪郭を重ね合わせ、次第に現在の私を意識させ始める。ふと、この一連の流れがピアノの調律作業に似ていると思った。そうだとすると、ピントが合ったような、または調律が揃ったような現実が確かなだけで、曖昧にズレたものは夢や記憶のようなものなのだろうか。それでは、そちら側は一体何なのだろう。調律上では避けられる音の世界と曖昧な思考状態…… それ以上は、もう何も考えられなかった。上着を羽織り、簡単に身支度を済ますと、私はそっと部屋を抜け出し、静かな階段を下りていった。

 ロビーに灯りは無く、街灯が放つオレンジ色の光がガラスを透かして床へと落ちていた。ソファーにはブランケットに包まれ座って眠る数人の人影があり、その中にアツカネの姿を認めた私は安堵した。酒の缶や空き瓶、食べ散らかした料理の容器が散乱していたが、それもどこか現実を確かにさせていて私を安心させる。せっかく掃除をしたのにまた散らかったロビーも、アツカネのことも、全て本当にあったこと…… そう思わせる程、昨日の一連のことが私の中で宙に浮いたままだったのかもしれない。ここ数日は、借り物の身体を通して世界を見ているようだった。

 静かにロビーを通り抜け、ゆっくりと外への扉を開けると、未だ明けることのない街へと私は足を踏み出した。
 立ち込めた霧に夜明け前のサンフラシスコは沈んでいて、オレンジ色の街灯は乱反射し水の底を思わせる。実際に服はすぐに湿り、髪も少し濡れていた。通りには車一台、人一人無く、私だけの霧の世界では見渡す限り放射状に光り輝くオレンジ色の星々が規則正しく点々と浮かんでいた。現実であるはずなのに、まだどこかで寝起きのような、もしくは明けぬ夢の中を歩いているかのように、私はふらふらと北の方角を目指して歩き出した。
 坂をいくつか越えると開けた道へと辿り着く。霧によって遠くまで見渡せなくても、その先に建物はなさそうで、この瑞々しい大気の中に潮の香りが混じっていることで、そこが海だと知る。時折、ヘッドライトを霧の中に輝かせながら横切る大きなトラックが、ここにも本当に人が居たんだと思わせられる。しかし、まだ現実離れしたような景色の中で、信号も街灯も全てが曖昧な光を拡散させていて、滲んだような空間を彷徨っている気にさせられる。私に固有の存在は無く、この全てが私と同じなのだろうか…… ふらふらと当てもなく、大通りに沿った歩道を歩いていると、重厚なエンジン音が迫り来ると同時に、霧をも切り裂くようなけたたましいクラクションが鳴り響いた。しかし、それもあっという間に過ぎ去って行くトラックの赤いテールランプ……

 何かに似ていたのは、水の中で聴こえる音。鈍い低い音、船の汽笛はそれだった。潜水し、身体を反転させ、見上げた海の上。キラキラとした光の帯が波に揺られ、我先へと上昇してゆく泡の行く末を見届ける最中、途方もない光景の中で私の存在が小さくなって消え去るような、焦点がズレ始め、この世に滲み溶け出し、遠い記憶にあと少しで手が届きそうな、そんなことを考えていた…… むしろ、考えていたというよりかは、そんな景色の中に私が居た。全てが薄れゆく最後、私の名を呼ぶ声が聴こえた気もしたが、定かではない。その後のことは何も覚えていない。全く思い出せない。


「こちら、マリーナ・ブルヴァ―ドにて――」
「あなた大丈夫? ねえ、あなた――」
 騒がしさ、頬に触れる冷たさ、そして、揺さぶられる肉体…… 眼の前には青々とした芝があった。そして、明けの少し青みが掛かった霧の中に輝く赤と青の光の明滅。
「あなた大丈夫なの? どこか怪我はない?」
 なぜか、うつ伏せだった上半身をゆっくりと起こしながら、その場に座り込むと、眼の前に居た黒人の女性警官が片膝をついた状態で、私の顔を心配そうな表情で覗き込んでいた。その奥の道の脇に停めたパトカーの脇では白人の大きな男性警官が無線で会話している。そして、私の服は芝の露に濡れたのか、肌まで伝わる程にびっしょりと濡れていた。
「あなた大丈夫なの? 何かあったの?」
 警官が私へ問い掛ける言葉の意味は分かるが、なぜ私がここで倒れて、何も覚えていないのかが分からず、返す言葉も浮かんではこなかった。この世の全てから遠く、感情も何も湧いてこないまま、ただ座り込んでぼんやりとしていた。最初に思い浮かんだことも、ここがアメリカだったということぐらいで、しばらくの間、それ以上のことが考えられなかった。
 とにかく、思い当たることは貧血で卒倒したぐらいなので、それを伝えようにも適切な英語を私は知らず、気分が悪くなったとそんなことを言うしかなかった。さらにIDに代わるパスポートを所持していなかった為に余計にややこしい。警官の優しくて簡単な英語の質問に一つ一つ答えていると不審な点を払拭出来たのか、とりあえず解放してもらえることとなった。二人の警官に見送られながら、私は目的も方角もよく理解しないまま、また歩き始める。

 朝陽の昇り始めた街は、まだ晴れない霧の中に沈んではいたが、それでも随分と遠くまで見渡せるようになっていた。気を失った後は、やけに身体が軽く感じられ、身体は濡れてはいたものの、どこまでも歩いていける気がした。歩く先に何があるのかも分からないまま、足元のコンクリートの歩道を見つめていると、意識が飛んでいた時に見た光景を思い返していた。そして、私の名を呼ぶような声。誰の声かも分からないが、その声が印象的で耳に残る。
 歩みを進める先からこちらへとスポーツウェアに身を包んだ白人男性が軽快に走ってくる。運動という活動に満ち溢れた行為は、私にはどこか不思議に映った。身体の外へとエネルギーを放出する行動は爽快なのだろうが、私は逆の内へと引き込まれるものに興味があった。もしかしたらそれは、彼らのように有り余るエネルギーのようなものが私には足りなくて、日頃から必死で蓄えるのが精一杯なのかもしれない。唯一、私にとって全てが解放される瞬間は調律だろう。針で一点を刺すような、小さな箇所へ全ての力を注ぎ込む。音へ触れることが出来る、一点を目掛け……
「グッドモーニング!」
 すれ違い様に彼は溌溂とした挨拶と笑顔を残し、すぐさま私の側を通り過ぎていった。私の口から言葉は上手く出ずに、何も言えないまま振り返る。彼は道の横の芝生を横切り、その先の砂浜の方へと走り続けると着ていた上着やTシャツを脱ぎ捨て、そのままの勢いで波の立つ海へと飛び込んだのだった。その時、初めて私はずっと鳴り響いていた筈の波の音が聴こえた。そう、聴こえたと同時に志摩の、あのピアノと一緒に居た、あの海を思い出した。遠い記憶の海、そして眼の前の海。さっきの彼が波へと飛び込む姿は、まるで調律の一点を捉えるような行動に今さらながら思えてくる。私はどこかで勘違いをしていたのかもしれない…… 人が行動をするということは、その意味や価値等関係なく、もしかしたら、ある一点へと向かっているのか…… そして、その後、どうなるのか、私はそれを知らなかった。
 再び歩きながら、海を見ていた。空と海面は、霧によって曖昧なまま両者の境目を打ち消していた。空が海へと続くのか、海が空へと続くのか、もしくは、もうそこで続きは無く、世界の終わりがそこにあるのか。引き寄せられるような魅力に恐怖を感じた私は、街の方へと戻ることにした。最後に、もう一度振り返り、過ぎ去った景色の中にさっきの彼の姿を探したけれど遠すぎて霧の先は何も見えなかった。
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