1994年7月15日 [ 1 ] 

文字数 2,004文字

 幾度、私はここで同じような朝を繰り返すのか。白いレースのカーテンは風に揺れている。そして、家の中に音は無く、静まり返っている。それと、不様に横たわる私の下着。
 ドアを開けると、誰も居ないと思っていたダイニングに二人は居て、二人の間には、よそよそしさが停滞している。
「あっ、起きた!」
「おはようさん」
「おはよう…… ございます……」
 その場を、そのまま通り過ぎ、私は歯ブラシを手にポーチへと向かう。
 まだ、蝉も鳴いていない朝だった。歯を磨く音だけが、場を乱すようにシャカシャカと頭の中に響く。今日することの予定もない。むしろ、何もしたくない、そんな一日の始まり。

 ダイニングへ戻ると、私の為に焼かれたトースト、目玉焼きとベーコン、トマトのスライスがテーブルの上に用意され、オサムさんの姿はなかった。
「今、コーヒー淹れてるから」
 少し居心地の悪さを感じながら、私は食事をする。それも、私が原因、なのかもしれない。食事は美味しいけれど、きっと、本当はもっと美味しいはずだった。
「じゃあ、行ってくるわ」
 オサムさんが出て行ったので、ピアノに行き先を尋ねると、私の財布を取りに行くらしい。慌てて玄関から裸足のままで飛び出した私は、ビートルに乗り込もうとするオサムさんを引き留めて、一度、家の中へ戻ってもらった。

「えーっと…… まずは、昨日、あんな言い方をして、ごめんなさい…… 別に、怒っているとかじゃなくて、二人には仲良くしていてもらいたいから…… それと、まだちゃんとお礼を言えてなかったので…… オサムさん、パンダを修理に出してくれて、ありがとうございます…… それと、ピアノ、色々気に掛けてくれて、ありがとう……」
 二人が驚いた顔で私を見る。何かまずいことでも言ったのかと自分を疑ったが、それも、思い過ごしだった。
「いやいやいや、そんな改まって言わなくても、俺らがみっともないだけで、むしろ、そこまで心配させて申し訳ないぐらいで……」
「そうやで、ミチヨは何も悪くない! 悪いのは、無理やり連れて来たワタシやし、何かあれば遠慮なく言ってくれてええねんで」
 遠慮なくか…… 自分で財布を取りに行こうと考えていたが、二人の態度を見て考えを改めた。
「じゃあ…… 二人で財布を取りに行ってきてよ」
「――えっ?」
「――えっ?」
 二人にとっては、道中じっくりと話しをする良い機会だし、私も一人になれるから、こんな都合の良いことはなかった。


 夕方前には帰ると言い残し、妙な雰囲気を漂わせた二人が黒いビートルで出発するのを見送った私は、とりあえず、ポーチにコーヒーの入ったマグカップを持っていくと、煙草に火を点け一息つき、今日の予定を立てることにした。
 特別なことはしないし、出掛けない。可能な限り、自分の家に居るような、例えば久しぶりの休日を過ごす感じ、そんな一日にする。そうと決まれば、まずは洗濯。
 昨日から黒パンダに積んだままのばい屋で買った服や、洗濯かごに入っていた二人の服も洗濯機に入れる。ジーンズは、これ以上、色落ちしたら困るので、あとで別に水洗い。そして、着ていた服も全部脱ぎ、絡まりそうなものはネットに包んで投げ入れると、洗剤と柔軟剤を垂らしてスイッチを入れる。洗濯機は動き出し、生活感が躍動し始める。そのまま私は浴室へと入り、風呂桶にお湯を張り、ジーンズをもみ洗い。汚れも落ち切ったところで、今度は、自分の身体を洗う。湯上りに自前の服を着て、ストレッチ。窮屈だった身体を隅々まで解き放つ。作業の終わりを告げる洗濯機に呼ばれ、洗い立ての服をかごに移すと、続けてジーンズを脱水。その間に、かごを担ぎ、家の裏手へ。服を干すには申し分のない太陽の下で、手際よく服を伸ばし、洗濯紐に吊るしていく。全てが終わると、洗濯機に再度呼ばれ、ジーンズを回収、キレイに伸ばして吊るす。ここで正午前。朝食の後片付けを済まし、お湯を沸かす。少量の豆を挽き、珈琲を淹れる。マグカップを持って迷うことなくポーチの椅子に座った私は、どうやら、この家で一番の場所を早くも見つけたようだった。

 活動を止めた身体に呼応する私の思考は、どこでもないところを浮遊する。陽溜まりの芝をぼんやりと眺めていたら、とりとめのない記憶の断片が浮かんでは消える。風もない、夏の午後の沈殿。
 誰かと一緒に過ごすのはもちろん楽しいけれど、独りで居るのが性に合っているのか…… ピアノとオサムさんは結婚するのか…… 私は、こうして、私の側を通り過ぎる人生を眺めて過ごすのだろうか…… 海の深い所へ私の手が届くことはなく、黒い馬の行き先を知ることもなく、来年の夏もまた、今とそれほど変わらないことを考えているのだろうか……
 ポーチの小さなテーブルに置いてあった古ぼけたトランプの束を手に取り、パラパラと数字や絵札を眺める。私の手の中のカードは、どれも手詰まりな気がした。
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