2004年8月1日 [ 6 ]

文字数 3,772文字

 トイレから出てきた彼女は濡れた手を振り水気を切っていた。彼女もまた私と同じように、あの生温い水で手を洗ったのだった。
「よかった! ちゃんと待っていたわね、私の恋人さん!」
 突然発せられた彼女のセリフじみた言葉に私はキョトンとしてしまった。この人は一体何を言っているのだろうかと。
「さあさあ、そんなところで突っ立ってないで、どこか座ってゆっくりと話しましょうよ。と、その前に、新しい飲み物が必要よね。私が奢るから何がイイ?」
 呆気に取られた私がアメリカーノと告げると彼女はあの空間を包み込んだ声で、相変わらず忙しそうな店員達へ、いとも簡単にアメリカーノ二つのオーダーを通してしまう。
「さてさて、次は場所よね…… ねえ、あなた達! 空のカップを並べて、いつまでそのテーブルを占拠するつもりなのかしら? 今夜は、もう帰って寝たらどうかしら? もしくは、どこかよそへ行って続きをするべきね、追加のオーダーがないなら」
 私達の側に座っていた男達二人に向かって彼女は諭すように言葉を並べ、反論の余地を一切与えることはなかった。渋々と仕方なく立ち去る男達を尻目に彼女は私の両肩を後ろから掴んで押すようにして、たった今空いたばかりの男の生温かさが残る椅子へと座らせる。とんとん拍子に運ばれる一連のことに私は終始されるがままだった。最早、彼女から逃げ出す隙なんて無いと思われる程に。
「そこで少し待っててね、私の恋人さん! コーヒーを買ってくるから」
 カウンターの方へ振り向いた彼女は、ドル紙幣をヒラヒラさせながら店員達を煽る。
「ねえ、本場イタリアじゃあ『エスプレッソ \ 急行』というだけあってすぐ出てきたわよ? アメリカのイタリア人はイタリア語を忘れたのかしら? それとも、ここじゃあ『ローカル \ 各停』って意味に変わったのかしら?」
「ヘイ! 今出来たよ! 『はっきりと \ エスプレッソ』言わせてもらうが、ウチの『エスプレッソ \ 珈琲』は、『特別に\ エスプレッソ』イタリアの長い歴史を込めて淹れているんだよ! ちっぽけな歴史しか無いこの国なんかと一緒にしてくれるなよ。さあさあ、イタリア語の講義は、また別の機会にしてやるから、今、俺達は忙しいんだ!」

 両手に白いカップを持った彼女が戻って来ると、テーブルにそれらを置き、勢いよく椅子へ腰を掛けた。
「私はアメリア、よろしくね、それで、私の恋人の名前を聞かせて?」
 正面からまじまじとこちらを眺める彼女が垂れさがっていた左の前髪を耳に掛けると、今まで隠れていた左耳に猫の姿をかたどった黒いイヤリングが揺れていた。
「私はミチヨ、日本から…… まあ旅行みたいな感じで来たの、アメリアよろしくね」
「ミチヨ、いい響きね。それにしても、アメリカに住んでいないのが残念ね。ご近所だったら、これからもまた会えるのに…… いつまで居るの?」
「分からない…… 変な言い方だけど、まだ決まってない、そう長くはないわ」
 旅行者の予定が決まっていないなんて妙なことだと思わないのか、彼女は気にする様子もなく自分のことを話しだす。ここがアメリカで、眼の前に居るアメリアがアメリカ人なんだと彼女の最近の身の上話を聴きながら、私はそんなことを考えていた。
「――それで、私の詩の朗読を聴いたミチヨの感想を聞かせてよ?」
 回り道のない、日本ではあまり馴染みのない話の展開に一瞬戸惑いながらも、私が彼女の詩を良かったと言ったのだからそれも当然かと私は自分の頭の中の考え…… どうも、私は変だった。初めての人に対して、どこか取り繕った、澄ました自分を演出しているようで、そんな私を私は好きになれないし、やってはいけないことだと思い改めながら、私はこの身の丈にあった会話を今こそするべきだと……
「ねえアメリア、私ちょっと煙草が吸いたいから外でお話ししない?」
「いいわね、私もちょうど吸いたいと思っていたところよ。ねえ、カウンターのあなた達! ここの席、空いたわよ! 今度、私が席に座りたい時は私に譲ってね?」
 アメリアが声を掛けた人達が笑顔でお礼を言って席に着く。私はカップを片手に外へ向かいながら、この自然な循環を羨ましく思った。


 夏の夜のサンフランシスコの野外は日本と比べものにならないぐらいに涼しく、トリエステの中の方がじんわりと汗ばむぐらいに暑かった。それは人々の感情の熱のせいだろうか、それともエスプレッソマシーンの熱気か。少し火照っていた頭は、夜気のおかげで冷めてくる。アメリアにカップを託し、私は二本の煙草に火を点けると、その内の一本をアメリアの艶やかな唇へ差し込み、また私はカップを受け取った。
「――さて、煙草の煙と一緒に、私の詩の朗読の感想も吐き出して!」
 アメリアの英語は分かりやすく、でも、ウィットに富んでいて、真似して誰かに使ってみたくなる英語だ。
「そうね、あなたの詩の朗読で素晴らしい時間を過ごすことが出来て、お礼を言いたかったの。でも、私には断片的にしか聞き取れなくて…… それでも、今の私には必要な気がしたのは確かなの。もしよければ、もう一度、聴かせてもらえればより理解出来るかもしれないのだけど」
「嬉しいわ、ありがとう。でもミチヨ、意味の重要性はたいしたことではないわ。とにかく、あなたに響いたのだから、私の詩は生きていた。そのことを大切にして。詩が芽生えたのよ! それで、何かイメージは受け取った? 素直なあなたの感想を聞かせて欲しい」
「イメージね…… 私の知らない私をあなたが見つけた。それは嫌で、まるで隠していたような自分…… あなたが私の秘密の扉を開けたような、そんなことかしら……」
「興味深いわね。もっと聞かせて」
「分かっていたようで、知らない振りをしていた私が居て、でも、今の私はそれで自分のことを苦しめていることに気付けばよかったのだけど、認めたくなかったのかな、最近の私はそんなことに悩んでいたのかもしれない。そして今日、私は蛾になる夢を見たの。それは奇妙な夢だったけど、私にとってそれは新しい視界を手に入れ、私をここへ連れてきた…… そして、あなたの詩に出会い…… ごめんね、自分でも何を話しているのか分からなくなってきた」
「いいのよミチヨ、私の詩があなたの秘密の扉を見つけたのかもしれないけれど、開けたのはあなたよ。その選択は、あなたの方にあった。そして、蛾なんて奇妙なことだわ。あの詩は、蛾のイメージも含んでいるのよ。それが全てではないけれど、詩を構想している段階で私は確かに蛾のビジョンを持っていた。きっと、そこが共鳴したんじゃないかしら、もし、そうだとしたら、私の見ていた蛾は、あなただったのかも? そう考えると、私達の出会いもロマンティックだと思わない? 私の恋人さん!」
 冗談を交えながらも、私に寄り添うアメリアの言葉は私に安らぎを与え、声は耳に心地良かった。そっとこちらへ伸ばされた手が、私の頬に優しく触れ、記憶の断片を過去から引き上がらせる。まとまりも繋がりもない、いくつもの過去の場面が現れては過ぎ去った。それは、ごく短い、瞬間だった。それらが通り過ぎ、最後に現れ停止した画像は…… よく見えなかった。だけど、私の名を呼ぶ声が聴こえた気がして……
「ねえ、ミチヨ! ミチヨ? 大丈夫?」
 初めて会ったアメリアの前で私は放心していたのか、心配そうに彼女は私の顔を覗いていた。
「うん、大丈夫。頭の中で色々な場面が過ぎ去りながら、つい見惚れたのかな…… 分からないわ、ごめんなさい。私達、今日初めて会ったばかりなのに」
「イイのよミチヨ、それより私が見つけた扉をあなたが開いたのなら、それは光栄なことなのよ。それで、あなたは何かを見た…… それとも、何かを聴いたのかしら…… まあ、イイわ、ところで、あなたは何か表現する方法を持っているの? 例えば、音楽とか、絵とか…… ファッションのセンスはイイわね!」
「いいえ、何もないわ。全くそんなこと考えたこともないし、そんな才能が私にあるなんて思ったこともないよ」
「じゃあ、あなたが感じた光景を詩にしてみたらどうかしら? そうすれば、あなたが私の詩に感じたように、私にもあなたの感じたことが分かるかもしれない。それは、とてもステキなことだと思わない?」
「え? 私が詩を創作するの?」
「そうよ! ミチヨなら、きっと書けるし、あなたのことを知りたい人は、確実に眼の前に一人居るわよ! 決まりね! 完成したら私に聴かせて、あなたの声でね! 私はこの近くに住んでいるから、ここへもよくコーヒーを飲みに来ているし、もし、ここに居なかったら電話で呼び出して、夜なら家に居ると思う」
 アメリアはカップを私に押し付け、手帳をポケットから取り出し、空白のページに電話番号を書き、勢いよくページを破くと紙を二つに折り曲げ私の唇へ差し込んだ。
「おやすみ、私の可愛いアヒルさん!」
 急に立ち去るアメリアの後ろ姿を見送る形で、両手にカップを持ったままの私の頭の中は、突然の登場のアヒルのことでいっぱいだった。そんな私を見たカフェの他の客が、手でアヒルのくちばしを真似「ガァ、ガァ」とこちらへ鳴き真似を寄こす。二つに折った紙を咥えた私は、そう、正に間抜けなアヒルだった。
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