2004年7月22日 [ 3 ]

文字数 3,816文字

 仕事帰りのいくつものくたびれた顔を乗せたバスは、オレンジ色に染まる街を走る。ジョージさんは、相席になった黒人の若い女性と何やら世間話で盛り上がっているようだった。私と並んで座っていたフレッドは、車窓から過ぎ行く街を時折見つめながら今宵の作戦を説明してくれる。波打つ道を走るバスは車体を揺らしながら、私はその行き先を知らない。
「――ホウ、候補はいくつかある、しらみつぶしに当たるとして、どうやって中へ入り確かめてくるか。ホウ、どうせ音楽を聴くわけでもダンスをしに行くわけでもない。ホウ、ましてや、いちいち飲んでいたら酒に溺れてしまうし、財布はすっからかんだ」
「そうね、私が一人で入って店内を見てくるから、フレッド達は外で待っていてくれればいいわ」
「ホウ、そうしよう。ジョージの相手もしなくちゃならないしな」
 バスが停車すると前方の席に座っていたジョージさんは立ち上がり、女性と頬を合わせ別れを告げ、こちらへ降りるよう手で合図を送ってきた。不思議な表情のフレッドと私は顔を見合わせ、放っておくわけにもいかないので私達も突然降りることにした。
「ホウ、ジョージ! 目的地はまだ先だ。ホウ、こんなところで降りてどうするんだ?」
 ジョージさんに問い掛けるフレッドに怒った様子は微塵もなく、年齢を超えた二人の間柄と、フレッドの優しさが滲み出ていた。
「向こうから歩いてくる男、見えるか?」
 ジョージさんが指差す方へと眼を向けると、一人の小柄な老人がこちらへとゆっくり歩いて来るのが見えた。
「ヘイ、兄弟よ」
「ヘイ、懐かしい声が俺を呼ぶから、おいおい、ついに天使が囁き始めやがった、と思ったぜ兄弟よ。こんなところで再会するとはな。どうだ調子は?」
「ホウ、兄弟よ! これはイイ、イイね、旧友との再会、偶然というのは感動を呼ぶ」
 二人の側で見守るフレッドは口調を真似ながら無邪気に喜び、そんな三人の表情を見ていると私まで何だか嬉しくなってくる。幸せとはこういうことなのかなと感じつつ、私もここから遠く離れた国に居るあの顔を思い浮かべていると、一瞬、私の名を呼ぶ声が、聴こえた気が……
「――ホウ、そういうことか。じゃあ、ダニエルとジョージは昔、一緒に鉄道技師として働いていたわけだ。ホウ、そして酒飲み友達であり、たくさんのあんなことや、そんなことをして、ホウ、ホウ」
「――ダニエルよ、とにかく夜は長い。最終列車を見送った後は?」
「ジョージ、それは飲みに行かなければならない!」
「ホウ、皆で行こうじゃないか! ホウ、本日の特別列車の空席はまだまだある! ホウ、さあ出発だ!」
 どうやら今夜の人探しはここで終了。そう、ダニエルさんを見つけたのだった。

 しばらく四人で話しながら歩いていると、賑やかな通りが現れた。レインボー色のネオン煌めく夜の街。フレッドの説明によると、ゲイやレズビアンの聖地とのこと。そこには日本では到底お目に掛かれないような派手な装いの人々が行き交っていた…… いやいや、身近なところに強烈な一名が居たことを思い返しつつ…… とにかく華やかな世界を前に全身真っ黒な服の私はもちろん場違いな感じがしたけれど、汚らしい白衣を纏うフレッドと老人二人の四人組に気を留める人は誰もいなくて、むしろ全てを受け入れるような寛大さが通りに満ちていた。
 先頭を歩くジョージさんとダニエルさんはいくつもの店を吟味しながら、その中から一軒を決めると入っていった。フレッドも後ろに続く。違和感を抱いたのは私だけのようだった。どう見ても、その店の外装は理髪店だったからだ。
 店内も通りに負けずカラフルな照明だが、元はもちろん理髪店のようで、居抜き物件をそのまま利用した内装は、等間隔に並んだ鏡はもちろんのこと、髪を切る時に座る椅子もそのまま一脚残されていた。私達はテーブル席へと着き、メニューを手に取ったフレッドは突然の大爆笑。
「ホウ、なんてこった! 『bar barber』だって? ホウ、バーバーバー、バーバーバー、バーバーバー…… ホウ、飲み屋なのに床屋!」
 店名を連呼するフレッドをジョージさんとダニエルさんが得意そうな笑みを浮かべながら眺める。私一人だけが、この流れに全く付いていけていないどころか、何だか勝手に気まずさすら感じていた。それは私が場違いな全身黒尽くめだから、それともレズビアンではないから、こういう人がたくさん居る賑やかな場所が苦手だから、多分、その全てだと思う。普段ならあまり気にもならないことが、どうも事が上手く運ばないことで私の気分は意外にも落ちているようだった。そんなことを考えているとジョージさんが店員を呼び赤ワインをグラスで注文したので、ダニエルさんはウイスキーをロックで、フレッドと私は生ビールを頼んだ。

「ホウ、バカな! 向こうからやって来るのは、泡だらけのビール!」
 椅子の上から転げ落ちそうなリアクションで大爆笑しながら盛り上がるフレッドの視線の先には、お盆に乗った見たことのないサイズのジョッキ、いやむしろピッチャーと言った方が納得のサイズの大きなジョッキグラス、そして、その半分は白い泡…… 私は何を見ているのか分からないまま、テーブルに置かれたその巨大な物体をまじまじと観察する……
「当店名物のシェービングクリームです」
 店員のその言葉に大声で笑いながら仰け反ったフレッドは、ついに椅子から転げ落ちる。それでも、フレッドの笑いは止まらないようで、ジョージさんとダニエルさんは、相変わらず得意げな笑みでフレッドを見守っていた。

 規格外のジョッキに勢いよく口を突っ込み、唇の周りに付いた泡でおどけるフレッドの隣で、見ているだけでお腹がいっぱいになりそうな持ち上げるのも大変なジョッキのビール、いや泡を少しずつ口に含みながら、私はジョージさんとダニエルさんが話す昔話を聞いていた。
 二人は鉄道技師として長年働き、今は共に引退し余生を送っているとのことだった。このことについては、フレッドも今日まで知らなかったようで、あれだけ騒がしかったのが今は静かにダニエルさんの話す声に耳を傾けていた。
「――当時は…… 貨物列車に無賃乗車しようとする奴がいてな。上の連中は見つけ次第締め出せと言っていたが、わしとジョージは見つけても、こっそり見逃していたんだよ。どれだけの人間を、この街からアメリカ全土へと送り出したことか。あの時のホーボー達は無事に目的地へと辿り着いたのだろうか…… そもそも決まった行き先なんてあったのだろうか……」
「そうだ、旅は素晴らしい」
 ジョージさんは赤い液体を下から眺めるようにグラスを掲げ、そこに映る世界を楽しむように言った。きっと、彼らの良き思い出に浸っているのだろう。
 昔話が止まることなく続く中、店には次々と新たな客がやって来て、私達が入店した頃は人も疎らだった店内もすっかりと席は埋まり、壁際や入口辺りでは立ち飲みしている客も現れ始め、熱気と活気は店から溢れんばかりとなった。そして、生ビールを注文した客の笑い声や歓声が至る所で湧き起こり、皆、口元にわざと白い泡を付けたりし、思い思いの時間を過ごしていた。
 こういう時、私以外の存在が急に遠くなり、喧騒もフィルターが掛かったような音で耳へと伝わり、ここに私は居ないんじゃないかと感じることがしばしばあった。とくに英語で交わされる会話は、意識をしていないと意味を持たないノイズとして私の耳を素通りする。サンフランシスコの夜、私はバーバーバーでビールを飲んでいるが、案外酔っぱらっているのかと確信を持てない程に意識が遠くなってきた淵で、突然、聞き慣れた言語が耳へと飛び込んできた。
「お前が、もたもたしているから、ほら、いっぱいじゃないか。だから、急げって言っただろ」
「そんなこと言ったって、昼間たくさん汗掻いて気持ち悪かったし、シャワーぐらい浴びたくもなるでしょう」
 日本語だった…… 入口付近から聞こえたその声に眼を向けると、男女の若い日本人が言い争っている。そしてその男は、出国前に手渡された一枚の写真、そこに写っていた尋ね人で間違いなさそうだった。椅子から立ち上がり入口へと向かおうとすると、フレッドが後ろで何か言っているような気もしたけれど、一瞬たりとも気を逸らしたり、眼を離すと男は消えて居なくなり、もう二度と会えない気がして私は振り向くことは出来なかった。ごった返す人混みを掻き分けるように、眼を離さず、一歩一歩近づこうとするけれど、大して広くもない店内が、太平洋を渡ってきたような距離をそのまま感じさせる程に私には遠く感じた。あと少しというところで、二人は店を出ようとしている。入口付近はとくに立ち飲み客が多く、上手く前へと進めない。何度も人にぶつかりながら、男が入り口を出た所で伸ばした私の手は、ようやくその男の肩を掴む。
「ちょっと! ちょっと! 待って!」
 揉みくちゃにされながら手を離さず店の外へと出ると、二人は不機嫌さと困惑とを交えた顔で私を見つめる。
「あんた、誰?」
 突然のことに驚くのも無理はないと慌てて肩に掛けていた手を離し、とりあえず店内から聞こえる声や音があまりにうるさかったので扉を閉めると、改めて少しは静かになった歩道の上で私は咳払い一つしてから言わなければならないことを伝えた。
「えっと、あなたのお母さんです……」
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