2004年7月18日 [ 2 ]

文字数 2,306文字

 まだ覚めきらない頭で空港内の案内表示に従いながら、気怠い足取りで入国審査の列の最後尾に遅れて到着して見たのは、制服を着た屈強な男女に両脇を固められて連れ去られてゆく、あのターバンのおじいさんだった。一瞬静まり返った広いホールにおじいさんの喚き散らす声が響き渡るも、またすぐにあちこちで列に並ぶ集団のお喋りの続きが始まる。この場に居るあらゆる国籍の人々にとっては自身の入国審査が一番の関心事であり、私もそうであるのは確かなのだが、おじいさんが連れ去られた理由への興味と少しの不安を抱いていたのも事実だった。まさかとは思うが、厄介事がこちらへ降りかかってこないようにと願いながらも、この旅の目的を思い出すと入国をそれほど歓迎していない自分もいる気がする。そんなことを考えている間にも並ぶ列は少しずつ前へと進む。時間に後ろから押され急かされているような順番待ちも長いようで案外短い。法律上、どこの国にも属していない曖昧なこの奇妙なエリアは、現代社会においてあらゆる事柄から一番遠い場所なのかもしれない。むしろ自分自身に一番近いのかも…… そんなことを考えていると、すぐに私の順番がやって来た。
「次の人!」
 待機列の先頭から足を踏み出す。ここまで来て後戻りなんて出来ないのに、こんな瞬間にも人生の進む道は決まっていくのかもしれない。
 印象良く軽い挨拶をし、パスポートや必要書類をひとまとめにして入国審査官に手渡すと、私は黙って手続きが行われる手元を見つめていた。
「君か…… 機内で君の横の座席に座っていた男だが、何か不審な点はなかったか?」
 何の目的でこの国へ来たとか、いつまで滞在するとか、どこの街へ行くとか、そんな質問をされるとばかり思っていたのに、開口一番、審査官の口から出てきたのは、全く私に関することではなかった。
「何か彼に怪しいところはなかったか、って君に聞いているんだが?」
 すぐに答えない私にイライラしたのだろうが、私はそんな審査官に対する嫌悪感が湧き上がり、何も知らないとだけ伝えた。そして、信じられないが、その他に尋ねられることは全く何も無く、豪快にパスポートへスタンプが押され、私の入国はあっけなく許可されたのだった。

 信用されているのか、それとも些細な存在だと思われたのか、一瞬そんなことも考えたりもしたが、私のことよりもあのおじいさんのことが気になった。心配になったわけではない。あの人の人生を左右する岐路を見たような気がしたからだ。あの強制的に連れていかれる物々しい状況で無事なんてことはなさそうで、この後、何らかしらの悪い展開がおじいさんの人生には起こるのだろう。何も偶然機内で隣り合った人の人生を重要視するわけではないが、普段の生活の中にも気付かず通り過ぎているたくさんの事象や数奇な運命が紛れ込んでいるのだろうと思わされる。ただ、それに気付かないだけか、その時の私には関係がないだけで、たくさんのことが過ぎ去ってゆく…… そんなことを考えて歩いていると、私は預けた荷物が回るターンテーブルの賑やかな人だかりの端に辿り着いた。

 急ぐことが何もない私は群衆を離れたところから眺めていた。次々と流れてきては拾い上げられていく大きな荷物、そして、この場から立ち去る人々。どこか私とは違う人達のようにそれらは眼に映る。聞こえてくる楽しそうな笑い声や意気揚々とした足取り、私には無いそれらがまるで嘘か夢のようで、あまり興味のない幸せな映画のワンシーンを観ている気がしてくる。徐々に人気の無くなっていくターンテーブル。そろそろ現実に戻らなければと人々のまばらになった隅の方へ、黒いゴムの暖簾が掛けられた荷物が再び吸い込まれていく口の近くに陣取り、この回り続ける大きな機械の音を聴きながら自分の荷物がやって来るのを待つことにした。
 やがて人々は居なくなり、独りになってしばらくするとターンテーブルの機械も停止し、ついに私の荷物が現れることはなかった。暖簾を押し退け口の中から現れた作業員が残っていたステッカーがベタベタと貼られた古ぼけたスーツケースを一つターンテーブルから下ろし床の上へ置いたが、それは私のものではなかった。その作業員に私の荷物のことを尋ねると探してみると言い残し、再び口の中へと消えていく。
 荷物が出てくるのを待っているだけのはずなのに、なぜこんなところで、こんなことをしているのだろうという疑問と、諦めに似た虚しさが浮かび上がる。ターンテーブルの縁に腰を下ろし、大きなスーツケースを転がしながら早足で通り過ぎる別の便の人々を眺めているといたずらに時間だけが過ぎていった。
 何十分待っても、さっきの作業員が再び現れることはなかった。私を怪しく思ったのだろう、ちょうどこちらへ近づき声を掛けてきた保安員に事の顛末を説明し、改めて取り次いでもらうことになる。益々虚しさばかりが増して、ついていない自分に嫌気が差す。
 しばらくして、さっきの保安員と一緒に現れたのは、私が話し掛けたのとは別の作業員で、結局、ここにはもう私の乗ってきた便の荷物は無いと言われた。あれを除いて、と作業員が付け加えた指差す方を見ると、さっき床に置かれた古ぼけたスーツケースがまだそこにあった。たくさんのステッカーが貼られたスーツケース。色取り取りのデザイン、国や街の文字、その愉快な見た目が主の不在を一層不憫に思わせる。保安院と作業員の話しを横で聞いていると、おそらくあのおじいさんのものということだった。
 どうやら他人のことを気に掛けている場合ではなく、厄介事を抱えているのは、あのおじいさんだけではなかった。
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