2004年7月25日 [ 3 ]

文字数 2,365文字

「ちょっと、座ろうか」
 私は野菜を切る手を止め、流れるままの蛇口の栓を閉めると、椅子に腰掛けた。アツカネも椅子に腰を下ろし、テーブルを挟んで向かい合いながら、私はますます恋愛における、しかもあまり良くないシチュエーションのようだと思った。初めて会ったバーの夜のように、アツカネは下を向いて黙っていたが、今が全てを話すタイミングだった。
「アメリカに来て、何か思ったことや感じたことはある? 何でもイイけれど、サユリさんのことではなく、あなた自身のことで……」
 答えが返ってくるまでに長引く覚悟をした。この街で過ごした日数と同じように、もしくは、遠い太平洋の向こう側に残してきた生活との距離のように、時間や距離がアツカネとこの世界との間に隔たり、彼には全てが遠くて手が届かないのかもしれない。ただ、焦らずに、今すぐ行き先や目的が見つからなくても、次の言葉を発するのはアツカネでなければならなかったので、若い彼にとっては酷であるとは知りながらも私は黙って待った。窓は私の背後にあり、外は窺えなかったが、キッチンの光の色彩が微かに落ちていることで、僅かな陽の傾きと、少々の時間の経過を感じ、そして何より、人生の広大な原野に立つアツカネの途方もない思考の探求を私は見守った…… 他人の頭は覗けず、全ては私の想像であり、それは私の描く世界に居るアツカネのことでしかないのは分かっていたが、ただ、そこに聴こえる音は何一つ無く、まるで写真のように、ある一点から動こうともしなければ、何かが香るようなイメージも持てなかった。そんな状況から人はどうやって動き出すのか…… 私には分からなかった。なぜなら、私は常に黒い雌馬を追い掛けていたのだから……
「トイレ…… 行ってきます……」
 顔を上げないまま椅子から立ち上がったアツカネは、久しく発した言葉を一つ残し、キッチンから出ていく。人の生理現象は、この世界と自分とを繋ぐ係留ロープのようなものだと、正に私の現在のことのようにも思えてくる。私も椅子から立ち上がり、小窓から顔を出し、外の空気を思い切り吸い込んだ。日本とも違う独特の乾いた大気が肺を満たし、そよぐ風が私へ問い掛ける。こんなにも世界は広いのに…… どこまでも行けるのに…… どうしてあなたはそこに居るの…… と。
 トイレから戻ったアツカネは顔を洗ったのか、前髪の濡れた少しさっぱりとした表情をしていた。そして、椅子には腰掛けずに立ったまま、か細い声で話し出す。
「ええっと…… 国とか言葉が変わっても、自分は何も変わってなくて、つまり…… その、それに気付いたんです……」
 ようやく出てきたアツカネの言葉は、クリサリスへ素直に来たことからしても、闇雲に日々を消化していた訳でもなく、彼なりに何かをずっと考えていたのかもしれないと少し安心した。
「そうね、国境を跨げば、その国の人々から受ける視線はこれまでとは違うけれど、それであなたの何かがすぐ変わる訳ではないからね」
 もう、ここまで来たなら、回りくどいことなどせずに、単刀直入に言うのが良いだろうと、少し間を置いてから私は言葉を続ける。
「じゃあ、もうイイかな? 私と一緒にすぐ帰る?」
 少々意地悪な言い方だとは思った。でも、本音を引き出す為の薬とも毒薬とも思える方法はこれしかなかったから仕方ない。
「いや、まだ帰りたくないんです! せめて、ビザのギリギリ、帰りのチケットの有効期限もちゃんとまだあるので、ここに居たいんです!」
 ようやくアツカネの本当の気持ちを聞けた。苛立ちや不安を抱えた彼の現状、どうしようもない未熟な自分に対する葛藤、昔の私も似たようなものだったし、またそれは人生において大切にすべきものだと、今の私にはよく理解出来た。こうなると、ここからは私の出番。
「そう、何かを、掴めそうな訳ね…… 分かった。じゃあ、そうすればイイわ。お父さんには私から伝えておくから心配しないで。ただし、条件があるの。一つは、私も一緒に残る。もう一つは、日記を毎日書くこと。どう、それでもイイ?」
「えっ、はい」
 俯いていた顔も今はしっかりと前を向き、素直であどけなく少しはにかんだような表情から、私はアツカネの信用を得られたのかなと思った。

 まな板の上でそのままになっていた葉物は切り口が黄色く酸化し、皿に盛っていた野菜も萎びてぺちゃんこになっていた。何かを得れば、何かを失う。いつも時間は無常に過ぎてゆく。時に人は、他人から感じる感情や掛けられた言葉の中で生きている。自分が望む姿は、本当にこれなのだろうかと違和感を抱えながら…… 心の奥底に閉まっている問い掛けと改めて対峙する場面と時間に出会うことは難しいようでいて、実際のところ、いつも私達のすぐ側で開かれている。その入口を見つけたならば、迷わず、すぐに飛び込めばいい。兎を見失う前に。そして同時に、私も私が飛び込むべき穴を見つけてしまっていた。へんてこなイメージを捨て去り、母親ではなく私として、ここに居るべきことを。
「今さらだけどさ、私も言っておきたいことがあるの…… 本当は、あなたの母親ということでもなくて…… ややこしいのだけど、あなたのお父さんと私は確かに籍を入れたけど、実際には仮面夫婦というか…… あなたの母親代わりになることを任されているというか…… つまり…… お父さんの資産管理も含め、まだ若いあなたの為に雇われた訳なの……」
「あの…… 何を言っているのかよく分からないんですけど……」
「そうよね! 突然現れて新しい母親とか言われて、でも、やっぱり母親じゃないとか言われたら、意味が分かんないよね! まあ、その、つまり…… これも全て本当は言わない約束だったんだけど…… あなたのお父さん、もうそんなに長くはないのよ……」
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