2004年7月19日 [ 1 ] 

文字数 1,760文字

 長い一日だった昨日を終えた私は着替える服もないのでシャワーも浴びず、日記も書かずにベッドに倒れ込んだまま寝てしまった。こんな時、昔なら奇妙な夢をよく見たものだったが、今の私の眠りに夢の世界が現れることはなかった。歳を取ったから、いつもとは違うふかふかのベッドだから、国が違うから、それとも私を取り巻く環境が変わったから……
 洗顔後の鏡に映る自分の顔色はカリフォルニアの光に照らされている為か血色がよく、歯磨きをしながら開け放った窓から流れ込む風はどこからか甘い香りを運んできた。時間は、正午になろうとしていた。

 役立つだろうからとフレッドから昨夜渡された幾度も広げられたであろうくたびれた大判の紙のこの街の地図は、ちょっとしたサンフランシスコのガイドブックのようだった。もちろん一般的な観光客向けではなく、フレッドの好みの店のことや転居を繰り返す友人達の名前が地図上に記され、私の目的とは関係のないそれらを眺めているだけでも十分に面白かった。しかし、あまりのんびりとしている余裕もなかったことを思い出すと、地図を畳んでメッセンジャーバックの中へ入れ、簡単に身支度を済ませ出掛けることにした。
 誰も居ないロビーは昨日初めて訪れた時と同じように午後の静けさの中にあった。まだ寝ているのであろう探偵助手の姿はもちろん無く、私は一人でクリサリスを後にする。

 何も知らない街において、目的地まで都合よく一本で行けるバスがあるかどうかも分からなかったので、さほど遠くないだろうと地図を見て判断した私は歩くことに決めていた。
 知らない街を歩く。これは、いつもの旅の過ごし方だった。その街のありのままの生活、地元の住民が通う小さなお店、そして、そこでの人との出会いが旅を豊かにしてくれる。今回は、自分の為の旅ではなかったが、これぐらいのことで旅の目的に支障が出ることもないだろうと、少しぐらいは私の旅を満喫することにした。
 ランチにしては遅い時間の飲食店はまだまだ忙しそうにしていて、街を歩く人の足取りも都会特有の早足だったり、その一方、奇妙で派手な服に身を包んだ怪しげな人のどこかのんびりとした歩き方だったりと、それぞれの速度がこの街にもあった。家々の窓や玄関に飾られた色とりどりの鉢植えの花々を愛でながら、道に沿って並んでいるヴィクトリア調の淡い色彩の建物を眺め楽しんで歩いている間はまだ良かったが、時間が経過し目的地へ近づくにつれ、次第にサンフランシスコの洗礼を足腰に受け始めた。
 目的地の方向へ行くにはどうしても急な坂が立ちはだかり、覚悟を決め上り始めてもすぐに息が上がってしまうばかりか、足の筋肉も悲鳴を上げてしまう始末。少し歩いては休むということ繰り返したが、前へ進むには呼吸と足が落ち着くのをしばらく待つしかなかった。エンジンを唸らせながら勢いよく坂を上がる車や下ってゆく軽快なステップの道行く人々を横目に、地図では分からなかった高低差を思い知らされる。一つの坂を上りきるのに数十分を要し、振り返り見下ろした街と海を見て、随分と高い所まで来たことが分かった。着いて二日目からこんな辛い思いをして異国の地で私は何をしているのだろうかと、そんな気持ちも多少は芽生えるけれど、結局、こういうことがいずれ旅の思い出となることを知っているから、私はまた懲りずに歩き始めるのだった。ただし、サンフランシスコの坂は、歩行者に少々厳しいとは思ったけれど……

 そんな苦労を重ねながら、ようやく私は目的の建物がある住所へと辿り着いた。辺りは辺鄙な感じのする住宅街で、お世辞にも高級な地域とは言えなかった。晴れた昼下がりの静まり返った住宅街で、私は緊張しながら玄関ドアの側にあった呼鈴を鳴らすと、しばらくして明らかに寝起きの若い白人の女の子が面倒そうな顔で現れる。この街では昼下がりに訪ねると寝起きの人しか出てこないのだろうかと一瞬思ったが、嫌な印象を与えないように私なりの精一杯の笑顔で、ここに住む日本人に会いに来たと言った。
「ああ…… 先週だっけ、んー、いや二週間前か…… もう覚えてないけど、出ていったよ。行先、私は知らないわ……」
 それだけ言い残すと彼女は扉を閉め、私は玄関に取り残された。この広い街で、他に何も手掛かりがないままに。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み