2004年8月2日 [ 1 ] 

文字数 1,695文字

 あれこれと急に沢山のことを頭へ詰め込んだ一日の終わりは、ベッドへと倒れ込み一瞬にして私は意識を失った。夢との境がないような昨日とは反対に、眠りの中で夢を見た記憶はない。疲れていたのか、それとも見ていた夢を忘れてしまったのだろうか。そんなことを真剣に考えてみたところで何かが分かる訳でもないのに、私は寝ぼけた顔を鏡の中に晒しながら歯を磨いていた。そんな問答で気を紛らわしていた理由は、アツカネのこと。昨日は、あれだけ意気込んでいたのに、一眠りしてみると、またこれまでの私と変わらず億劫になっていた。リセットだ。そもそも楽しいことでもなく、私のことであるから逃げようもないが、過ぎてゆく日々に無理やり背中から身体を前へと押され、帰国日というタイムリミットが迫り来るイメージは悪夢を見ているようで、寝てもいないのにうなされそうだった。そして、最早タイミングさえも私の味方ではないのか、隣室からは音も無く静か。どうやらアツカネは不在のようで、すぐに行動出来ないことを言い訳にして、余計に気持ちは遠ざかるようだった。

 シャワーを浴びた後で独り軽い朝食をゆっくりと食べる。食事が終わってしまえば、私は待つこと以外にやることがなかった。もどかしさばかりが込み上げ、開け放った窓から聞こえる外の喧騒が余計に私を虚しくさせる。昨夜のトリエステのトイレの生温い水が何もしてくれなかったように、外的な要因が都合良く私を変えてくれることなんてなく、私を変えることが出来るのは自発的な私の意思だけなのに、揺らぐ心で過ごす時間の中で私はサンフランシスコを彷徨う亡霊のようだと思った。いや、彷徨ってすらいない、キッチンに居座るお化けだ。

 「EXODUS」を開いて、蛾のページを眺める。「母は炎を目指す」の言葉をイメージしながら、昨晩のアメリアの詩を思い返す。「私達は蝋燭の炎を共に眺め」というフレーズが記憶の中の彼女の声で再生される。明るい光に引き寄せられる蛾、これまでの私はそれを外側から見ていたような感じだったが、今は違った。主観だった。果たして私の臨む先に光は見えるのだろうか…… 無理やり想像すれば光は頭の中に浮かんだが、そんな単純なものでもないような気がして私はもう少し考え直す。いくつものあらゆる自然光や発光体を思い浮かべてみるが、ことごとくどれも違うような気がした。

 本を閉じた私はベッドで横になりながら、詩について考える。今日は、まだ一言も言葉を発していなかった。それは、まるで若い頃の生活のようで、誰とも会わず、話すこともなく、一日が終わってゆく。誰かと私は話したいのだろうか…… 気を紛らわす相手にされる人が可哀想だと、そんな軽い気持ちを払拭しながら、学生時代の国語の記憶を探ってみた。詩の授業もあった筈なのに私は何も思い出せない。そもそも詩なんてこれまでの私の生活には無かった訳で、それを無理やり今から創作してみるなんて無謀なことだった。身近なところに詩なんて…… そうか、あることにはあった。ピアノの詩。だけど、あれはピアノが書いたものであって、それを歌っただけの私のものでは決してなかったし、改めてピアノの詩を思い返せば、あんな高等なことは私に出来そうにもない。益々、詩のことが分からなくなるばかりか、どんどん遠ざかる。結局、私に出来ることなんてほとんどなくて、調律ぐらいは他人より少しぐらいマシだと考えてみても、それで儲かる程の仕事がある訳でもないので、一体私には何が出来るのか考えれば考える程、この年になれば焦ることも無く、ただ後何年、こんな私のまま生きるのだろうと虚しくなるばかりだった。ふて寝をしようにも、十分な睡眠を取ったばかりで眠たくもなく、むしろ無理難題を考えれば考える程に私のちっぽけな頭は健気に頑張り冴えようとするが、明確な答えや詩が生まれることはなかった。

 こんなことをしていてイイのだろうかという考えが浮かんだところで、打開策も無く、どこかへ行く気分にもなれず、クリサリスの屋根裏のベッド上の私は、有るのか無いのかそれもはっきりしないような時間を過ごしながら、まどろむ。
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