2004年7月18日 [ 1 ]

文字数 3,564文字

 窓側の席を指定したものの、シェード下ろしたまま外なんて全く眺めずに、乾燥と絶え間なく鳴り続けるエンジン音に耐えながら、エコノミーの狭い座席に納まり、ただ長い時間が過ぎるのを待っていた。幸い真横は空席だったけれど、もう一つ隣の通路側の席には、表情一つ変えず無言で真っ直ぐ前を見つめ異国情緒溢れる白いターバンを頭に巻いた老人がじっと座っていて、その異様な存在感にどうも席を立つのも憚られる。押し込められた機内の片隅は、何もかもが遠くに感じる。地上から見た時には、あれほど自由であると夢想した空の上の実情は案外異なっていた。
 気掛かりついでに、もう一つ。これは、完全に自らが招いたことだったが、ヴィーガン用の特別メニューの予約を忘れていた。今回が三度目の国際線の搭乗だったけれど、食生活を変えてから初めてのフライトでもあり、出発前の慌ただしい生活とで、そんなことは頭の中からすっかりと抜け落ちていた。一縷の望みに賭けて何か食べられそうな物がないか尋ねてみて、それで無ければオレンジジュースでも飲みながら、この窮屈な長時間をやり過ごすしかないと考えていた。
 配膳が始まる前に、像のように全く動かないおじいさんの腿を大股で跨ぎ、トイレへ行くついでに乗務員さんへ食事のことを尋ねてみた。回答は、もちろん「ノー」で、想定通りオレンジジュースを多めに持ってきてもらうことになった。水分ばかりを摂取してトイレが近くなることは、今のところ考えないようにして…… 久々の旅だったが、目的も今は考えない。頭に浮かんでくるあれこれを追い払っていると、像の心境に惹かれてくるようで、何だか並んで座るおじいさんに影響されている気がしてくる。猛スピードで移動しているこの飛行機と同等の思考速度なんて私は持ち合わせているのだろうか…… 無いから、何も考えないのか…… そんなことを思案していると、前方では一度目の配膳の準備が始まり騒々しくなっていた。

「これとか、どうかしら?」
 乗務員さんが周囲に先んじて持ってきてくれたのは小さなガラス瓶に入ったいくつかの離乳食だった。品質表示欄を見る限り、確かにヴィーガンでも食べられるものしか入っていない。三種類の異なる味の瓶を乗務員さんから受け取ると、ついにおじいさんが身体を動かし、瞬き一つしないギョロリとした眼でこちらを凝視してきた。腕の中に赤ん坊を抱えている訳でもなければ、こんな大きな赤ん坊なんているはずもないので、さすがにこのスペシャルフードは彼の興味を惹いたようだった。
 突き刺さるような横からの視線を感じながら、早速、蓋を開けると、色彩の薄いジャムのような素材を小さなスプーンで一すくいし口へと運んだ。脳と舌が全く一致せず、本当に食べているのかと疑いそうになるぐらいに無味無臭。食べ物には何らかの味や香りがあるとばかり思い込んでいた私は、優しい乗務員さんの気遣いと離乳食の優し過ぎる味わいを堪能しながら、SFにでも出て来そうな未来の栄養満点だけど質素な食事を勝手に思い描いた。
 配膳のカートがようやくこちらへやって来ると、乗務員さんは横のおじいさんに食事のメインディッシュを魚かチキンのどちらにするか尋ねた。しかし、おじいさんは必要ないと告げると、また無言で前を見るだけだった。そういえば、飲み物すら飲まず、スナックにも手を付けず、何かを口にしたところは見掛けなかった。少し気分でも悪いのだろうと、とくに気にすることもなかったが、乗務員さんは困り顔を私へと投げ掛け、すぐに次の列へとカートを移動させた。

 轟音にも耳が慣れ、それが当たり前になってくると、今度は別の音が気になり始めた。肘置きを跳ね上げ、二席を占有し、頭をこちらへと向けて寝るおじいさんのいびき。睡眠もろくに取れないまま、まじまじと間近に迫るターバンの生地を見つめ、私は狭い座席でブランケットに包まれながら空腹と騒音に耐える。
 結局、すぐに眠れそうになかった私はメモ帳を取り出し、旅立ち前の慌ただしさを言い訳にして溜め込んでいた日記を書き始めた。時折揺れる機体に合わせ、あちこちへと頭の中で記憶が飛び、その都度、詳細を書き足してゆく。こんな空高い場所で数日前の記憶へ飛び込んでみても、しっかりと過去から伸びる手が私を誘い、空白のページを言葉が埋めていった。
 うとうとしていたようなまどろむ感覚から正気を取り戻し、腕時計の短針が示す数字を見ても、時は僅かばかりしか進んでいなかった。それでも奇妙なことに、私を乗せた飛行機は時間を遡り、日付変更線すら越えてしまった今、私はすでに過ぎた昨日へと舞い戻っている。これが海外渡航の醍醐味でもあり、とてつもなく長くなる一日の日記は、眠ることも許されない為に、いつもより書くことが多くなりそうだった。

 こんな機内においても人々には時間の感覚があるようで、まだ薄暗い照明の中で目覚め、席を離れる人達が現れ始めた。高速で移動している時間、体内時計の時間、出発地、もしくは新しく訪れる国の時間、昨日から明日へと流れる時間、時間とは不思議なもの。私の時間は定まらず、あらゆる時間の狭間を漂っているようで…… ただ相変わらず、私の隣ではいびきと、さらに唸り声を響かせ、おじいさんは眠っている。もはやこの慣れてしまった環境は残り僅かと分かっているので幾分か我慢も出来るが、次は、いよいよ到着してからのことが頭をよぎる。つまり、私の想像外の不安な時間の中へと身を置くことになるということだろう。少し憂鬱ではあるけれど、飛行機に乗ったところから決まっていることを今さら悔やんでも仕方もないので、ブランケットを身体から剥がすと、私も運動がてらトイレへと席を立つことにした。

 トイレの列に並ぶ私へ顔見知りとなった乗務員さんが笑顔で近付いて来ると、陽気な調子で話し掛けてくる。
「あなたはラッキー。次の食事は期待してもイイわよ!」
 きょとんとしながらも、それ以上は聞き返さずに、どれだけ特別な離乳食が出てくるのか、それとも一ダース分のガラス瓶が私の前に並ぶのかと考えていた。昔よりも、より敏感になっていた今の私の舌は、さすがに少しばかりの刺激を欲していたのかもしれない。それは、どこか懐かしくもある若い感覚でもあった。

 周囲の羨望を集めながら、隣の隣の席からはより一層の視線を感じつつ、運ばれてきたのは金の縁取りの白亜の陶器に盛られた色取り取りの瑞々しいフルーツだった。ファーストクラスで余ったものを、こちらへと回してくれた乗務員さんの山盛りの心遣い。このエコノミーには場違いな食事を前に恐縮しながらも、舌の上に広がるその甘さに私は一瞬でマスカット、メロン、パイン、オレンジを平らげてしまった。胃は落ち着きを取り戻し、今さら眠気を誘発した頭が、さあ眠れと囁く。もう寝る時間なんてほとんど残ってはいなかったが、こんなにも静かな調べを聴いたのは、いつ振りかも覚えてはいなかった。

 時々、人生には思い掛けない出来事が起こる。その始まりへと足を踏み出す私はまだ何も知らず、一線を越えた随分先にある瞬間で振り返ると、それがどこだったのかをようやく知る。春の風にそよぐ野の上か、蒸した夏の夜の外灯の下か、秋の心地よい目覚めの時か、凍てつく冬に延々とこだまする悶え倒れ込んだ音か、それとも、私が今、立っているここよりも、もっと先の想像すら追いつかない、描くことも出来ない未来……
 夢の世界の速度が一年をあっという間に過ぎ去った頃、乗務員さんに身体を揺すられ目覚めた私が告げられたのは、間もなくの到着とシートベルト着用のお願いだった。窮屈だと、あれ程思っていたのに、もう少し、この眠る他に何も出来ない環境を望んでいた私は、窓を覆っていたシェードを押し上げた。眼に溢れる太陽の輝き、このキラキラと光る海のどこに目的地はあるのか。そこへと降り立つ私の姿を頭に描いてみても、まださっきまで見ていた夢の方が、よく知っている私のような気がした。タイヤが大地に触れ、機体が大きく揺れるまで、私はまたブランケットに包まれ眠っていた。

 急いでもいない私と対照的に隣人は、滴り落ちる顔の汗を黄ばんだ布でしきりに拭いながら、我先にと席を立ち出口へと向かっていった。もう二度と会うこともなく、一生に一度のすれ違いを惜しむこともなく、見送る誰かの後ろ姿。
 後方の座席からの人の流れもようやく途絶えたところで、頭上の荷物入れから下ろしたメッセンジャーバックを肩に担ぎ、私も飛行機から出ようとすると、あの馴染みの乗務員さんが私を笑顔で見送ってくれた。
「良い旅を!」
 果たして、これが良い旅となるのかは分からない。それでも、笑顔で返すぐらいの気持ちの余裕を私は持ち合わせていた。
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