1994年7月20日 [ 2 ]

文字数 2,617文字

 額の汗が落ちないようにと頭からすっぽりと覆ったタオルも湿り、耳をつんざく蝉達の喚き声にも邪魔されながらも何とかポニーの調律が終わった頃、確実に体感気温はここへ来てからの最高値を叩き出したに違いなかった。窓や扉を全開にしたところで、よそよそしく、か弱い風がたまに通るぐらいの部屋の中は、これまで調律をした環境の中で一番劣悪だった。エアコンもクーラーもない部屋を飛び出した私は一目散に洗面台へと向かい、期待した程は冷たくない水で頭を冷やす。それにしても、この身体の底から湧き上がるような充実感は一体なんだろう。きっと私だけじゃない、黒い馬もポニーも弾むように音を響かせていた。

 髪を束ねた頭に洗ったタオルを巻くと、冷めてゆく感じが一層心地良かった。冷蔵庫の中で冷えていたガラス瓶の水をコップで立て続けに二杯飲み干すと、さらにもう一杯注いでポーチへと向かう。
「ここはまだ風があって、うーん、気持ちイイなー」
 椅子に座ったピアノは全身で伸びをする私を見上げながら、手の中にある開いていたノートを閉じた。
「終わったんや、ありがと。暑かったやろ、あの部屋」
「そうだね。でも、何だかさっぱりした」
 私がベンチに座り煙草を取り出すと、ラスト二本だった。このタイミングで煙草を吸いそうなピアノは黙ったまま、眼の前に広がる暑そうな芝を見つめている。テーブルの上の灰皿は吸殻が山のようになっていて、その横に握り潰された煙草のソフトケースが転がっていた。
「ピアノ、吸う?」
「ん? ああ、貰うわ。ありがと」
 煙草の煙は熱い風に運ばれ、光の中へと曖昧に消えてゆく。私達は言葉を交わすこともなく、蝉の鳴き声だけが延々と続くポーチで、ようやく始まったばかりの夏に、いずれ訪れる終わりの気配を感じていたのかもしれない。
「ミチヨは、このあと、どうすんの? 調律するんやったら二階はもっと暑いで」
「今日は、もう終わりする。さすがに二台も調律したからね。それに、エレクトリックピアノは勝手が違うだろうから、まずは中を覗いてみないと分からないし」
 夏の屋根裏の暑さは知っている。ピアノに言われたことでまた、自分の部屋のことを思い出していた。
「ほんじゃあ、ドライブ行かへん? って言っても、どうせ海しか行き先もないけど」
「いいよ、私もちょうど気分転換したかったし」
 自分の部屋のことなんか考えているより、少しでも海を見ていたかった。せっかく志摩に居るのだから、せっかくピアノと居るのだから。


 全開の窓から入り込む風は濡れた髪を乾かしながら舞い上げ、逃げてゆく太陽を追い掛けるように私達は黒パンダを走らせる。見覚えのある辺りへと入り込んだ瞬間、タツオさんの家も流れ去る風景の一部として、また、あの一日の思い出と共にバックミラーの中で小さくなってゆく。平日の先志摩半島の道は先日よりも空いていたが、路上には首からタオルを下げた水着姿で歩く海水浴帰りであろう人達の遊び疲れた姿があった。こうして車を走らせる度に垣間見る志摩の文化や風土は、オサムさんの家とは違った一面を映し、別の土地に居るようにも思えてくる。おそらくオサムさんの家、いや、むしろオサムさんやピアノが私にとって特別なだけで、まだまだ私はこの土地のことを知らなかった。

 細く長い半島の先端、御座までやって来ると、そこはまさしく行き止まりだった。地図を見ても、もうこの先には海しかなく、英虞湾と外洋との境目を前に漁港へと降り立ち臨む景色は、遠い対岸の山々がすぐ近くにあるように見えるだけで、私が求めるような海は、残念なことに一直線に横切る防波堤に隠れて見えなかった。そして私達は、またバックミラーの中に過ぎ去った光景へと舞い戻る。それは、同じように海の側へ建つ灯台からの帰り道とは違い、何か特別な感情を得ることもなく、むしろ、さっきまで散々向き合っていたピアノ弦の振動のように感じた。行っては帰り…… 進んでは戻る…… 人は時間を経験し…… 弦は音を生む…… 頭の中に浮かんでは消える言葉の群れ、うるさいことさえ忘れていた蝉の鳴き声がやっと耳に届いた時、往路には気付きもしなかった白い百合の花の群生が道端の茂みにあった。うなだれるように頭を垂れ咲く百合は、永遠と何かを考えているようでもあった。灯台、百合、もしくは、ポーチの剥げ欠けたペンキ、白色の印象が泡のように生まれては消え、ただ、それも一瞬の出来事で、あっという間に過ぎ去ってゆく。

 外洋を探し、来た道を戻り、先日、私一人で訪れた船越の国道260号沿いへ駐車すると、今日を名残惜しむ太陽の熱はまだ衰えてはいなかった。路肩は浜から飛ばされた砂にまみれ白っぽく、吹き溜まりとなった場所には両手一杯程に積もった砂の山に青々とした雑草が育っている。アスファルトの道や堤防のコンクリートに囲まれ、どこへも行き場のない小さな世界は、たくましくもあるが、淋しくもあり、揺れ動く心の居所によって感じ方は違う気がした。
「ねえ、ピアノ、この草を見て、どう感じる?」
「ん、そうやな…… ミチヨぽくもあるし、ワタシぽいかもしれん」

 五百メートルはあるであろう長い浜に下りると、ノートを片手に持ったピアノは真っ直ぐ木陰になった浜の端の方へと砂に足を取られながらよたよたと歩いていった。私は視界一面に広がる長い浜を見渡し、立ったまましばらく押し寄せる波の音を聴く。初めは無心でいられても、やがて様々な感情を伴った記憶が大海原からやって来る。そして、砕け、弾け、記憶の連鎖が次々と呼び寄こす忘れていた過去は止まることもなく…… その時、私の眼前を猛スピードで横切る小さな黒い物体。眼で追う先には…… ツバメだろうか、飛翔しする黒い影、そして、随分遠く小さくなったピアノの後ろ姿。私は反対の方へと歩み出した。

 波打ち際の黒い砂は固く、踏み出した靴底の周囲に海水が滲んでは、また砂へと吸い込まれ消えてゆく。時折、押し寄せる力強い波を避ける度に、打ち上げられた浮遊物が描く波の到達線上へと私は追いやられていた。振り返ると、私の足跡は波が連れ去り、陽を斜めに受けた黒い砂上では、去りゆく波の後に粒状のいくつもの輝きが生まれていた。突然、私はそこへ流木か石でも投げ込みたくなった。手頃な物がないかと足下を見回してみると、砂に半分埋もれかけた木片のような物が見つかった。拾い上げ砂を掃うと、それは胡桃だった。
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