2004年7月19日 [ 2 ]

文字数 2,064文字

 グロッサリーストアで大きなペットボトルの水を買い、店の外で一気に三分の一程飲む。食道を流れ落ちる冷たい水は身体中に浸透してゆくような快感があった。しかし、そんな気持ちの良さも一瞬のことで、現状としては、人通りも少ない街の外れの住宅街へ数時間掛けて歩いてきたのに、ふりだしへ戻るどころかゲームオーバー寸前の状態だった。ここへ留まっていても無駄なのでとぼとぼと来た道を戻るように歩き出したが、あれだけ苦労して上ってきた坂の下りだというのに軽快どころか無駄足だったことで足取りは重くなる一方。通常、ネガティブな状況でも解決策や打開策のようなものが見えていれば不貞腐れず前を向くことは出来るけれど、取り付く島もない今のような状況で、しかも外国で私はどうすれば良いか見当がつかなかった。
 クリサリスへ近づくにつれ、良さそうな雑貨店やカフェ、古本屋なんかを見掛けたけれど、入ってみようなんて気分には全くなれなかった。過ぎ行く景色はどこか現実離れした世界のようで、サンフランシスコを舞台にした映画を日本で見ているぐらいの感覚のずれを私は感じていた。ただ、乾いた喉を潤す水と張ってカチコチになった足の筋肉だけが確かな感覚を私に与える。

 往路よりも時間が掛かりながらクリサリスへと戻るとロビーのソファーに項垂れた要素でフレッドが座っていた。手にはおそらく水であろう液体の入ったグラスを持ちながら。
「どうしたの? 大丈夫?」
「ホウ…… ん? ミチヨか…… 二日酔いだ……」
 歩き疲れた私も一人掛けのソファーに腰を下ろすと、僅かに残っていたペットボトルの水を一気に飲み干す。何もすることがない午後、暗いクリサリスの奇妙なロビーの光景と窓の外の嘘のようなカリフォルニアの晴天は混濁した永遠の時の中を漂っているようだった。
「ホウ…… お尋ね者は見つかったのか?」
「いいえ、住所にあった家には、もう住んでいなかった。引越したみたい……」
「ホウ、そうか……」
 再び訪れる静寂。私は何かを忘れているような気がしたけれど、それが何なのか思い出せなかった。それを何かのせいにする訳ではないけれど、徒労に終わったこの数時間が影響していないとは言えなかった。
「私、ちょっと部屋に戻って休むね」
「ホウ…… 良い午後を過ごしてくれ……」

 部屋に戻ると、当たり前だが出掛けた時そのままの部屋がそこにはあった。出掛ける前の私は今日色々な問題を片付けようと気持ちを強く持って出て行ったのに、今の私は成す術もなく力尽き、カバンも靴もそのままにただベッドに倒れ込むだけ。分かったことは、この街の坂がいかに大変なのかということ。今後、どうすればよいのか…… たくさん汗を掻いたのでシャワーでも浴びようと思った瞬間だった。
「着替え! 買わなくっちゃ!」
 勢いよく起き上がり、部屋を出て階段を下りると、フレッドはソファーで横になって大きないびきを掻いて完全に寝ていた。
 近所のお店のことについて教えて欲しかったが諦めクリサリスを出ると、さっきとは反対の方へと当てもないが行ってみることにした。

 この辺りは交通の不便な立地ではあるもののダウンタウンへそれほど遠い訳でもないので、一度に全ての生活雑貨から適当な服まで揃いそうな郊外型の大型店は近くに無さそうだった。そうなると、買いたい物は個別のお店を回って手に入れなければならない。フレッドがあんな状態でなければオススメを聞いて最短ルートでお店へ辿り着けるのにと思いながらも、行方知れずの人を探すよりかは圧倒的に簡単なミッションだった。しかし、闇雲に歩き回ってもこの街はいつも坂にぶつかるだけで足の筋肉を傷めつけるだけである。そこで私は道行く人に声を掛けお店の場所を聞くことにした。
「すみません、この辺りにスーパーマーケットはありますか?」
「そうね、確か、あっちの方にあったと思うけど…… 私はこの辺に住んでいないから詳しくは知らないのよ」
 地元ぽい雰囲気を醸し出していたおばさんはそう言い残し去っていった。あっちとは、一体どれほど進めばよいのだろうか…… 仕方なく、そのあっちへと向かうが、スーパーマーケットがありそうな気配は全く無く、むしろオフィスぽいビルばかりが増えてくる。絶対にあっちには無いと判断した私は、別の方へ進んでみることにし、交差点で右か左へ行くことにして立ち止まった。普段であれば何てことないこんなことでも異国の地であれば今後の運命を左右するような判断にさえ思えてくる。本来であれば、どこに居たってそうであるはずだが、旅というものは特別な感情を与えてくれる。ポケットからクウォーター・コインを一枚取り出し、放り投げて鷲の面が出れば右へ、人の顔の面であれば左へ行くことにした。親指で軽く上方へと弾き飛ばしたコインは宙を回転しながら手の中へと落下する。キャッチし握り締めた指を解くと、掌にはおじさんの顔。その誰か分からないおじさんの顔の面の空いたスペースには「IN GOD WE TRUST / 神を信じる」と刻まれていた。
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