2004年7月23日 [ 2 ]

文字数 3,332文字

 午後一番に彼は来るかとロビーで待っていたが、いつまで経っても彼は現れなかった。落胆を抱えつつ、カウンターの椅子に腰掛けながらロビーを眺めていると、部屋の中央で天井から垂れ下がる一筋の長い蜘蛛の糸が暗い室内に浮かび上がる。前の道を通り過ぎる車のガラスに反射した光が一瞬差し込み、暗闇に潜む蜘蛛の糸の存在を露わにしていた。
「フレッドー、フレッドー」
「ホウ、彼が来たか?」
「ううん、まだだけど、このロビーさ、私が掃除していい?」
「ホウ、掃除? それは随分と忘れさられていた単語だな。ホウ、ミレニアム以前に置いてきた二十世紀の古語の一つか。ホウ、よし! ミチヨの為にもすぐに取り掛かろう!」
「なぜ私の為?」
「ホウ、なぜなら、彼がこの現状を見て『こんな汚いホテルになんか泊まれるか!』と踵を返されても困るからな。ホウ、そんなことになったらミチヨが何よりも困るだろうし…… ホウ、まあこれはついでだが、キレイなホテルなら女の子も泊まりに来るかもしれない…… ホウ、限りなく可能性はゼロかもしれないが……」
「それって、自分の為じゃないの?」
「――いやいや、ホウホウ、とにかくだ、今すぐ取り掛かろう! ホウ、そうこうしている間に彼がやって来るかもしれないからな」

 私は高い脚立に上り天井やシャンデリアから垂れ下がる蜘蛛の糸を掃うことにした。クリサリスに箒なんてものは無いようなので、脚立の上でブラシを高々と掲げて先に絡ませる。当の蜘蛛からしたらとんだ災難だろうが、どうやらすでに引越したようで幸いその姿を見ることは無かった。そして、気を付けながらシャンデリアの埃をタオルで拭っていると、脚立の足元を行ったり来たりしていたフレッドは彼にしか判別出来ない不必要な物、つまりゴミを選別して大きなビニール袋の中へと捨てている。しかし、どうやらゴミと呼ばれる類の物は私が思うよりも意外に少ないようで、ほとんどの物はそのままそこへ置かれたままだった。私には分からない価値が、きっとそれらにはあるのだろう。
 次に、私は眼に付いた天井を試しに水に浸し固く絞ったタオルで拭き上げると、薄らと地の色が現れ、拭き取ったタオルを黄ばんだ煙草のヤニが染め上げた。それを見た私は脚立の上で呆然としてしまう。このロビーの天井や壁の全てがヤニで琥珀色に染まっているとすると、到底一人では今日中に終わらせることなんて不可能だと悟ってしまったからだった。
「ねえ、フレッド、これどうする?」
 黄色くなったタオルと天井を指差しながらお伺いを立てるとフレッドは感心した様子で笑っていた。
「ホウ、なんてこった。そんな色をしていたとはな。いや、子供の頃に見たような気もするが、それも随分前のことだから忘れちまった。ホウ、しかしだな、俺が手伝ったところで二人ではこの広さはどうすることも出来ない! これを全て終わらせるには大掛かりなことになる! ホウ、そうであれば汚した張本人共に手伝わすのが筋ってものだろう」
 手を止めたフレッドは一度自室へと引っ込むと、なぜそんな物があるのかも不思議なレトロな黄色い拡声器を片手に現れ、二階へと怒鳴り散らしながら颯爽と駆け上がって行った。脚立の最上部に座り、二階で繰り広げられるドタバタ劇の音を聞きながらロビーを見下ろし、開け放った扉から入り込んだ風や香りを感じていると、大きなアウトドア用のバックパックを背負った彼が一人で入口の前に現れた。
「あっ、いらっしゃい……」
「ど、どうも……」
 次に掛ける言葉は見当たらなかった。母親にならなければならないという変な気負いがのしかかり言葉を詰まらせる。脚立の上から見下ろす私、敷居を跨ぐことなく突っ立ったままの彼、黙ったまま二人の関係は縮まるどころか遠のいてゆき、今すぐにでも彼がここから逃げてしまいそうな気がして不安が押し寄せる。そんな時だった。二階からゾロゾロと住人達を従えたフレッドが下りてくる。相変わらず拡声器で怒鳴り、このクリサリスの汚い現状に対する演説を打ちながら。
「ホウ、諸君! その顔に付いたちっぽけな曇った眼を見開いてロビーを見たまえ! どうだ? 曇った眼ではよく見えないか? それなら眼も掃除した方がよさそうだな! ホウ、散々楽しんだ結果がこれだ! この現状を打破すべく、我々は…… ホウ! ホウ! おい、マジか? やったぞ! 彼の登場だ! ミチヨ! やったぞ! 彼が来た! ホウ、ホウ、お前ら、彼が来てくれたぞ! よし、君も掃除に加われ! ホウ、今すぐに! これからお世話になる場所をキレイにすることは当然だ!」
 この場の全ての視線を浴びた彼は、英語が分からないので私に助け船を出して欲しそうな眼で見上げてきた。
「その、つまり、一緒に掃除しましょう、ってこと」
「は、はい……」
 頷きながら小さく言葉を発した彼はクリサリスの敷居を跨ぐと、ロビーの片隅にバックパックを下ろし中からタオルを一枚出すと、黙ったままそれを首に掛けた。

 いったいクリサリスにはいくつの脚立があるのか分からないが、奥や二階からどんどん脚立が運び込まれ、合計四台の脚立がロビーに立てられた。天井を拭き上げる人、壁を拭き上げる人、家具を掃除する人、床をモップ掛けする人、ガラスを磨く人と、よくもまあ、金曜日の午後にこれだけの人達がこのクリサリスの二階に潜んでいたことにも驚かされる。誰が本当の住人で、誰がただ遊びに来ていた人なのかも分からないが、総勢八人もの助っ人のおかげで掃除は予想よりも早く終えることが出来た。日本では夕刻頃の時間だったが、ここの外はまだ明るい。
「ホウ、諸君! ありがとう、ありがとう、ご覧の通りロビーは見違えるようにキレイになった。ホウ、ささやかではあるが今宵は諸君にディナーと酒を振る舞おうではないか! ホウ、だが、その前に! 諸君のその汚い面や曇ってこの世界を見渡せていないその眼をよく洗っておくように!」
 お気に入りの拡声器でフレッドが言い終えると、その場に居た助っ人達は大いに湧き上がった。そして、すかさずフレッドは拡声器で言葉を続ける。
「ホウ、それとだ、それ、そこのウォールフラワー! そう、君のことだ。ホウ、こちらへ来て自己紹介をしなさい!」
 おどおどした様子でフレッドの側へやって来た彼はフレッドから手渡された拡声器を受け取ると一呼吸置いてから話し出した。
「ええ…… その…… ああ…… 私、の名前は…… あ、アル・カポネ、です…… す、スカーフェイスと…… 呼ぶ、な……」
 何のことが分からず唖然としたのも束の間、私の方が恥ずかしくなるようなこの意味不明な一幕は、場を凍り付かせるような静けさが襲った。しかし、一瞬にして助っ人達は湧き上がり、なぜか彼を称えるように皆が笑い、楽しそうに彼と次々に皆がハイ・ファイブを行う。英語を正確に話せなくても掃除を通じて彼は皆と楽しそうにしていた。とくに同年代の若者達は彼を受け入れ、彼自身も一心不乱に身体を動かしたことで、ここへ来た時とは別人のように明るい顔をし、笑顔も見せるようになっていた。もちろん、その後にはちゃんと彼は改めて本当の自己紹介をした。
「私の名前は、アツカネです……」
「ホウ、アツカネ! 諸君! 彼は少しの間クリサリスに滞在するので、遊びに誘ったり、何かを手伝わせてもよい。ホウ、とにかく、彼に私達の愛するアメリカを、いや、我がサンフラシスコを存分に与えてやってくれ! 以上!」
 演説が終わったところで私はさっきアツカネが話したことの内容についてフレッドに尋ねてみた。どうやら、アツカネという言葉の発音が皆には、かの禁酒法時代の大物マフィアのアル・カポネと聞こえたらしく、さらには掃除の際についた頬の汚れが、アル・カポネの頬に実際にあった傷に似ていたことから、あの自己紹介の台本をフレッドが考え、アツカネに皆の前で言うようにさせたとのことだった。「スカーフェイス / 傷のある顔」と言われることを極端に嫌っていたアル・カポネ。そんな逸話なんて知らなかったけれど、ここはアメリカ、アツカネも楽しそうな再スタートを切れたようで、ここへ来て初めて私は少し楽な気分になれた。
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