1994年7月17日 [ 2 ] 

文字数 2,196文字

 初めてこの眼で見る灯台は、とにかくその白い色が眩し過ぎた。この志摩に降り注ぐ陽光が本来持つべき色を格段に引き立て、それはもはや色をも超えた網膜に焼き付ける何か特別な力を放っている。ただ、建っているだけなのに灯台という建造物では納まらない何か…… 今の私が考えて分かるようなことは、何一つないのかもしれない。とにかく、大きく真っ直ぐ天に向かってそびえるその勇ましい存在感とは裏腹に、こんな晴れた青空には似つかわしくない異様な孤独も漂わせていた。これまで私が見たことのある建物には決して感じたことのない人に似た感情が灯台にはあった。
「ミチヨ、中入ろー」
 入場料を入口の脇にあった小屋で払うようだったが、これまたピアノはここの受付のおばさんとも知り合いのようで何事もなく中へ通される。真下で見上げようとした灯台は太陽の逆光の中にあって、とてもじゃないけれど眼を開けることが出来ず、灯台の大きな影の中へ入った私は改めてその姿を間近に感じた。
「また来たでー、元気にしてたかー」
 灯台の白い胴に触れながら撫でたり、ペシペシ叩いているピアノを見て、声を掛けたくなるような存在であることは私が抱いた感情にも近かった。
「ほら、ミチヨも触ってみー、噛みつかへんから」
 掌を前へ差し出しそっと触れた白い肌は、遠くからだと分からなかったけれど、実は細かくデコボコしていてサラサラだった。そして、影になっていた部分の掌に伝わるひんやりとした冷たさが、なぜか遠い時間を感じさせた。ずっとここで独り、嵐の日も晴天の日も、動くことも出来ず、ただ建ち続けている。私だったら虚しさでその身が押し潰されてしまう。
「で、触ると、このとおり、真っ白!」
 退色したペンキの白色か、それとも潮の結晶か、薄白く染まったピアノの掌…… 私も自分の白くなった掌を見つめていると、数日前、高速道路のサービスエリアで指先に付いた蛾の鱗粉の記憶が蘇ってきた。

 灯台の中は螺旋上の階段が上まで続いていた。外に比べると格段と薄暗く、一段一段上ることが灯台の孤独を踏みしめているかのようで、むしろ逆さまの深淵へと下りてゆくようにも思えてくる。時折現れる窓と、そこから覗く外の景色が、薄暗い中において切り取られた絵のように私へ問い掛ける。螺旋の末、行き着く先にあるもの、私がこれから見る景色は……
 灯台の主となる投光機器が詰まった最上部を抜けると、一面に広がる真っ青な海と空が私へと迫ってきた。眼に映る、どこまでも青い色。海も空も青いのは、どちらも光の影響だと聞いたことがある。見上げれば光しかない。そして、絶えることのない岩肌に打ち付ける力強い波と猛スピードで吹き抜ける強風が、この光景に与えられた音だった。
「ぎゃー、髪がぐちゃぐちゃー」
 後頭部に結んでいたゴムを解くと髪は一瞬ふわりと舞い、そして風のいたずらと戯れる。少なくとも今の私を縛るものは何もなかった。生活も、将来も過去も、もちろん五線譜もここにはなく、真っ直ぐ遮るものは何一つとない世界を見つめる。黒い馬も、きっとどこかへ行ってしまって、これから私はこの先に新しい道を探すのだろうか。この広い世界のどこかに。
「ミチヨ―! イイ景色やろー!」
 ピアノが私に見せたかった景色。これは確かに見たこともなければ、他には決してない特別で大事なものだと、大地の果て、岬にて想う。

 遠くの水平線に浮かぶ点のような大きなタンカーが私を現実へと引き戻し、ちょうど他のお客さんも上ってきたので、私達は灯台から下りることにした。
 海の方へ突き出た敷地から、灯台の正面の姿を改めて見上げると、後から来たお客さんの居る灯台の上が随分と遠く感じる。それは実際の高低差なんかではなく、やはり異空間と日常の間にある特別な距離のようだった。人を導く、白亜の塔か……


 灯台を後にし、元来た方とは反対の海岸線に沿って階段を下ると、浜に設置された高いコンクリートの防波堤上の道の先に神社の鳥居が現れた。その背後には小高い林の中へと石の階段が続いている。軽やかに階段を上がるピアノに続き私も上がるが、木立へと隠れる前に振り返り見た大王崎灯台は、ぽつんと淋しそうにしていた。
 気の早い数匹の蝉の鳴き声に急き立てられ階段を上がりきると、そこは波切神社の境内で、頭上を覆う椿の葉が木漏れ日を受け、その肉厚で艶やかな表面を輝かしていた。船越神社のように踏み込んだ玉砂利の音は辺り響くけれど、あれほど轟いていた波の音もここまでは届かなかった。土地特有の急な勾配が静と動を繰り返しながら、極端なまでに相反する事象を含んだこの一帯は、やはり夢の中のようで、しかも眼の前にいるピアノと共に見ているような不思議な心持ちにさせられる。振り返る、この数日間も、そうなのかもしれない。さっき階段で見た淋しそうな灯台の姿は、どことなく、これまでの私の人生のようにも重なってみえる。一見、何でもない小さな漁港のようで、ここには幻想を映し出す装置のような作用があるのだろうか。波のように揺れる私の心が何度も岩へと打ち付けられ、その度に現れる数々のイメージもまた砕け散り、後に残った私は何を想うのか。
 姿形を変えながら、問い詰めるように押し寄せる考えが私をおかしくさせそうになった時、ピアノの微かな声が聴こえた。
「ミチヨやったら大丈夫…… 音はまだ続いてるから……」
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