2004年7月26日 [ 5 ]

文字数 3,069文字

 私とダニエルさんは終始無言のまま、タクシーはサンフランシスコの街を駆け抜ける。こんな時だからこそ、お喋りな運転手でなかったのはよかったけれど、頭の中に浮かぶ不安が完全に消えることはなく、それでも私は抵抗するかのように不安を払拭する自分の中でのまじないじみた儀式を繰り返していた。浮かんでくる不安要素をそっと横へ押しやる。ただ、それだけのことだったが、ずっと景色を眺めながら、そんなことをし続けていた。そうでもしないと不安というものが私を息苦しくさせてくる。座っているだけなのに息が詰まりそうになりながらも、様々に形や姿を変え結局は最終的に不安となって現れる感情を幾度となく押しやった末、クリサリスへ辿り着いた。

「フレッド! 最近、ジョージはここへやって来た?」
 勢いよく扉を開けロビーへ入ると、Tシャツに短パンと見るからに寝起きのフレッドがしょぼしょぼした顔をさらにくちゃくちゃにしながら電話の受話器を置くところだった。
「ホウ、ミチヨじゃないか。おはよう、いや、こんにちは、違う、こんばんは、にはまだ早いか。そして、寝ぼけていなければ後ろに見えるのは…… ホウ、ダニエル。珍しい組み合わせだな、ジョージがどうかしたのか?」
「ねえ、ジョージを見掛けた?」
「ホウ、そういえば、ダニエルやみんなと一緒だった日を最後に見ていない。バーにも来ないし」
 その言葉を聞いて思わず振り返った私が見たのは、動じず、ただフレッドの言ったことを噛み締めているような凛々しいダニエルさんの表情だった。
「フレッド、お願い! 今からジョージさんの家へ連れていって!」
「ホウ、そうだな、何だか俺も心配になってきたので行くとするか」

 いつもの白衣を羽織ったフレッドを先頭に、思わず早足になるのを抑えながら、ダニエルさんの歩調に合わせて並んで歩く。ジョージさんの所へ行ける安心と、決して消えることのない不安が同時に押し寄せるのをそのままに、一ブロック先をぐるっと回り込んだ裏側にジョージさんの住む古びたアパートはあった。
 建物の入口の脇にあるジョージさんの部屋番号の呼鈴を何度か押したところで何も応答が無いので、フレッドは眼に付く呼鈴のボタンを片っ端から手当たり次第に押した。すると、頭上の部屋の一つの窓が開き、顔を出した中年の髭面の男が見知らぬ顔の私達を見るなり怒鳴り付け、大きな音を立てて窓を閉めた。そして、別の窓に眼をやると、白いレースのカーテン窓から品の良さそうなお婆さんがこちらを覗いていて、それを見つけたフレッドは、ジョージと連絡を取りたいから取り次いでくれと大声で頼み込んだ。その時、突然私達の眼の前にあったアパートの扉が開き、背の低い丸々と太った白人の少年が現れ、脂で白く汚れた眼鏡越しに私達を見上げた。
「何のさわぎだ、うるさいね。君たちは、何のようでボクを呼んだんだ?」
「ここにジョージってじいさんが住んでいるだろ? おそらく、部屋に居ると思うんだが、呼鈴を押しても応答が無い! だから、お願いだから管理人か大家に連絡をだな……」
 早口で説明するフレッドの言葉を遮るように少年は掌をこちらへ向け、静止させるかのように嫌そうな顔で自分の父親が管理人だと言った。
「お前か、お前の親父か、誰でもイイんだ! とにかくだな、早く中へ入ってジョージに会わせてくれ、頼む!」
「あやしいヤツだな。あやしいヤツは中へ入れるわけにはいかないんだ。オヤジに言われているからな。どうしても入りたいならオヤジは夜になったら帰ってくるから、出なおせ」
 そう言い残すと少年は扉を閉めてしまった。
「なんて生意気なガキだ! こっちの気も何も知らずに」
 頭を掻き毟るフレッドに、いつもの優しい様子はなく焦っていた。
「フレッド落ち着いて。仕方ないから、あの子のお父さんの帰りを待ちましょう。今はそれしかないのだから」
「ミチヨ、ありがとう。そうだ、まだ何も決まったことなんてないんだ。きっとジョージは今夜クリサリスへ飲みに来る為に寝ているんだ……」
 このやり取りの間もダニエルさんは一言も発することなく、ただ静かに状況を見守っているかのように見えた。私達はこの場から離れることも出来ず、ただ少年の父親を待つしか出来ないのだろうか。
「あの…… もしお困りでしたら、私があの男の子に話しをしましょうか?」
 静かに再度開いた扉の陰には、さっき窓から覗いていた品の良さそうなお婆さんが心配そうな面持ちで立っていた。
「ジョージさんには日頃から私もお世話になっておりますし、私も最近彼をお見掛けしないので少し心配ですから……」
「婆さん、頼む! 俺達が一緒じゃなくてもイイ。あなたが見て来てくれれば、それでイイから!」
 大柄なフレッドが小柄なお婆さんの両肩を掴みながら嘆願する鬼気迫る姿に私は圧倒され、最早これ以上何も言うことはなかった。落ち着いた様子のお婆さんは小さく頷くと、フレッドの大きな手から身を離し扉の中へと戻っていった。

 焦りで長い時間を待たされているような感覚を味わったが、ダニエルさんのことを思うと不安で震え緩みそうな歯を食いしばる。
 しばらくすると、また扉は開き、今度はあの少年とお婆さんが連れ添って出てきた。
「申し遅れました。私はカレン、そして、この坊やはケビン君です。このお利口な坊やがお父さんに電話をしてくれましてね、私が事情を説明し、お父さんの了承を得ました。私が責任を持ってジョージさんの部屋の鍵を開けますので、皆さん、どうぞ中へお入りになってください」
 丁寧な口調のカレンさんの後ろに連なり、私達はアパートの中へと入った。私達を悔しそうに見上げるケビン君に少し可哀想な気持ちも湧き上がったが、今はそれどころではなかったので私は黙って通り過ぎようとした。だけど、ダニエルさんはケビン君の前でしゃがみ込み、あの硬い手をケビン君の肉付きのよい頬にそっと添えた。
「いい子だ。君は本当にいい子だ。部屋でおとなしく待っているんだ。出来るね?」
 そう言い終えたダニエルさんはゆっくりと立ち上がるとケビン君の頭をポンポンと軽く撫でるように叩き、優しく彼の背中を押してやった。無言でこの場から走り去るケビン君は、自分の部屋へと入ると振り返ることもなく後ろ手で扉を閉めた。立ち止まりその様子を窺っていたカレンさんが頷くと、ダニエルさんも小さく頷いた。


 ダニエルさんの言葉を最後に、その後、誰かの声を聴いた記憶は無かった。ただ、私達が上がる階段の木の軋む音だけが印象に残っている。それと、階段の踊り場の窓から見えた光景。すぐ隣の建物の日当たりの悪そうな壁に描かれたカラフルな太陽のグラフィック。ジョージさんがいつも見たであろう景色。そして、さらに階上の踊り場の窓からは、同じタッチで描かれた月のグラフィックがあった。どうやってこの高さの壁に描いたのかは私には分からなかったが、そこにあることは事実だった。
 三階にあったジョージさんの部屋の前でカレンさんは立ち止まると、穏やかな動きで扉をノックした。しかし、応答は無かった。カレンさんは私達を見回し、とりわけダニエルさんに了解を得るように頷くと、しっかりと手に握り締めていた合鍵を鍵穴へと挿し込んだ。誰の言葉も無いまま、鍵の開く「ガチャリ」という音だけが派手に廊下に響く。こんな些細な音ですら何か悪い方へと導かれるのではないかという思いと共に、一瞬だけだがあの懐かしい五線譜が突如現れ、「ガチャリ」という一連の音符を残すと、また儚く消え去っていった。
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