1994年7月13日 [ 1 ]

文字数 3,093文字

 ずっしり重そうな黒い生地のカーテンが風を受けてゆっくりと舞い上がる。触ってもいないが、質感は丸く柔らかいと分かる。例えば、それは黒い馬の毛並によく似た光沢のある、いや、ほとんど馬と変わらないのだろう。辺りに潮の香りはするものの、暗くて景色は見えず、時折、遠くから風に乗って流れて来るピアノの音色だけが唯一の音だった。音は微かで途切れては聴こえ、何かの曲の数小節の断片。カーテンは揺れ、ピアノの音は穏やかに小さな波が砂をさらうようなサラサラとした余韻と共に消え去る。私は、それらを仰向けに寝転びながら、見て、聴いていた。多分、これが夢だと思ったのは、水が静かに満ちて次第に身体が浸されてゆくのに身動き一つ出来なかったからだろう。濡れてゆく身体が、はたして自分の本当の身体なのかも分からぬまま、何も出来ないのであれば、もう何もいらないと考えた矢先、黒いカーテンは黒い馬に姿を変え跳び上がったまま、私の視界からは消え去った。馬もいない、音も聴こえない、いつしか、水も引いていた。

 知らない場所で目覚めるなんてことは人生で一度もなく、仰向けに白い天井を眺めながらも、おそらくここがピアノの家なのだと考えていた。それよりもとにかく身体がやけに重く、無理に起き上がろうとすると、あちこちの関節に痛みが走る。しばらくは、このままかなと思ったけれど、急に後頭部や背中が湿っているのに気付き、歯を食いしばりながら、ゆっくりと上半身を起こすと、寝汗を掻いていた肌が晒されひんやりとした。思考も身体もまとまらない感じがしばらく続く中、網戸から流れ込む潮風と白いレースのカーテンが戯れるのを、ただ、ぼんやりと眺めていた。
 何度、白いカーテンは舞い上がったのだろう、何分ぐらい過ぎたのかも分からない、そして、何時間、私は眠っていたのだろうか。この部屋を取り囲む一辺は白いレースのカーテンがなびく大きなガラス戸だが、その他の壁は天井まで木製の棚が設えられ、そのほとんどが本で埋まっているので、大量の背表紙の文字に私は軽い眩暈がした。
 着の身着のままだった私は、冷たい背中に貼り付く白いTシャツを不快に思ったけれど、何よりも、借り物のパイル時の白いシーツと真っ白な枕カバーを寝汗で濡らしてしまったことを本当に申し訳なく思った。
 立ち上がり、手招きをするかのように前後するカーテンの側に行ってみると、眼下には明るい海が見えた。湿気を含んだ少し生温い風に異国の情緒を覚え、陽を受け細かにきらめく穏やかな海面はスパンコールの衣装さながら、その輝きが絶えることはなかった。一瞬、頭をよぎったピアノの顔、この景色を私に見せたかったのだろうと考えながら、しばらくの間、私は潮風を浴び、身体へまとわりつくカーテンをそのままに海を見ながら立ち尽くしていた。

 それにしても、家の中には一切の音が無かった。閉ざされたこの部屋のドアの向こうに人の気配も無かった。私は恐る恐るドアを開けると、生活感を残したままのダイニングキッチンがそこにあった。もちろん、私以外に人は居ない。
 四脚のちぐはぐな洒落た椅子に囲まれた木のテーブルの上には、ピアノがエッサウィラから持ち出した酒の瓶が無造作に置いてはあったがどれも空っぽで、変わった形をした渇いたグラスも二つあった。部屋を見渡す限り、調度品やキッチン道具の一つ一つ何から何まで昔のフランス映画に出てくるみたいにカラフルで、若者特有の落ち着きのない勢いのような、そんな印象を受けた。そして、私の部屋には全く無い、所々に置かれた鉢植えの植物が暮らしの余裕と心地良さを醸し出し、全体の調和を保っている。
 玄関がありそうな方のドアをそっと開けてみるとそこは廊下になっていて、まさしくそこに玄関と二つのドア、二階へと続く階段があった。
「おーい……」
 返事はなく、家は余計に静まり返る。

 トイレを見つけた私は用を足し、ついでに見つけた洗面所で顔を洗った。そして、歯を磨きたかったのでサービスエリアで買った歯ブラシセットをパンダに取りに行こうと玄関に行くと、私の靴だけがきちんと並べられ、そこに置いてあった。
 玄関には鍵なんて掛かってなく、そのままドアを開けると、一面の芝の向こうに私のパンダが停まっていて、ようやく知った現実を取り戻した気がした。
 白いペンキが所々剥げたポーチの軋む木製の段差を下りると、芝の柔らかさが脚の裏から伝わり、今すぐにでも寝転がりたい衝動を抑えながらパンダまで辿り着くと、私は今さら鍵を持っていないことに気付かされた。もちろん、ドアには鍵が掛かっていて、窓ガラス越しに見えるダッシュボードのポケットには目当ての歯ブラシセットが突き刺さっているけれど、あと一歩で届かないもどかしさが込み上げてくる。どうにでもよくなった私は、靴を脱ぎ散らかし、履いていた靴下を投げ飛ばすと、陽溜まりになった芝の上に腰を下ろし、そのまま腹這いになって寝転んでみた。陽光に蒸された芝や土の香りは、鼻を通り抜け脳天を突き抜けるように新鮮な記憶として刻まれる。
 眼の先のようやく手の届くところに一本だけ茎の太い違う雑草があったので、幼い子供のような残酷さで私はそれを引き千切ると、指で押し曲げ鼻へと当ててみた。裂けた切れ目から滲み出た汁は、瑞々しい切ったばかりのセロリのような匂いがした。私はそれを力の限り遠くへ投げてみたが軽い茎はそれほど飛ばず、すぐ近くの芝に埋もれるように消え去った。
 指先へ付着した植物の汁が乾くよりも前に、私は、また眠ってしまっていた。


「おいっ、お前もちょっとは持つん手伝えよ」
「この、か弱いピアニストの華麗な手に、そんな重そうなもん持たせんといてー」
 スーパーの外は梅雨明けしてギラギラの今年も登場、夏の太陽がガンガン照り付けてる。ちょっと気の早い一匹の蝉が、早速、仲間を起こそうと必死で鳴き続けてる。「ほら、待ちに待った、俺達の一生に一度の夏が始まるぞ」って。
「もうっ、暑いから、早く車開けてー」
「両手塞がってるの知ってるやろ、ありへんわ…… ほんで、あと、どこ行くん?」
 一週間ぐらいは大丈夫って程の食料や酒は買い込んだし、これで毎日パーティー三昧。
「洗剤とかトイレットペーパーないんちゃうのー」
「ああ、じゃあ薬局行かなあかんな」
 何回目の志摩の夏やろ。この町は大好きやけど、ここに居るだけやとたいして代わり映えせえへん日々の生活に、ときどきちょっと物足りなくなる。ワタシの求める刺激は、ここにはない。でも、それが東京にあるわけでもない。場所の与える影響ってありそうで、結局は……
「――薬局、着いたで。それにしてもほんま、お前、珍しく楽しそうやんな」
 確かに。こんな気分は、いつ振りやろか。

 家までの道が、こんなに違って見えるなんて思いも寄らんかった。ワタシにとってはいつもの、当たり前のたくさんの景色や経験を早く伝えたかった。この先もずっとずっと、このまま変わらず続けばイイのにって心から願った。この車のスピードさえも、もったいぶった感じがして、未知のもんに対する子供のような期待と待ち遠しさって、人は、いつ忘れてしまうんやろ。
「ちょっと、早よ急がんと、生鮮食品痛むで。ほら、早よ、早よ」
「ああ、もう分かってるって、十分速いで。ほら、あと少しで着くし、大人しく待っときって」
 今日は何しよか、明日の予定は何がイイんやろ、と考えている内に、車は家の前へと辿り着いた。
「おいっ、あれ! 死んでんちゃう……」
 一発でさっきまでの気分が吹き飛ぶぐらいに、それは我が眼を疑う光景やった。
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