1994年7月22日 [ 1 ] 

文字数 3,227文字

 朝ご飯の支度をピアノとしていると、近づいて来る一台の車の音。急いで玄関から飛び出すと、そこには元気そうな姿の私のパンダがいた。
「おっ、戻ってきた」
「やっぱミチヨは、あのパンダやな」
 つなぎを着たお兄さんが運転席から降りてくると、私は深々とお辞儀をしてお礼を言った。
「そんな大層な、お礼言うなら、あっちやで」
 お兄さんが指差す方でオサムさんとピアノが笑っていて、私は何だか恥ずかしくなったけれど、素直な気持ちを言い表す方法なんて他に思い付かなかったのだから仕方がない。
「故障個所はセルモーターの不具合で、中古品のパーツで代用してあるから。ざっと他のとこもついでに見ておいたけど、エンジン掛けたらラジオが鳴る理由だけは分からへんかったわ。なんやろあれ、怪奇現象? 嘘ウソ、冗談やで! まあ、不都合ないし、ラジオぐらい鳴らしといたらエエわ」
 ラジオは仕方ないとして、とにかく動いてくれるだけで有難かったが、気になるのはその先だ。私は、よく知っている。このパンダという子は、金食い虫だということを……
「えっ、修理代? それは……」
「それは?」
「気の強いお姉ちゃん、つまり、あんたが怒ると怖いから、オサムが立て替えて払ってくれたで」
「はぁ? 気の強い? お姉ちゃん? 私が?」
「そうそう、『ふざけんな! 私の財布取ってこい!』って、凄んで言ったんやろ?」
「えっ?」
「嘘ウソ、冗談ジョウダン! まあ、この件は、オサムと話しいや。俺はちゃんと代金貰ってるし」

 つなぎのお兄さんは、オサムさんと軽く談笑し、仕事があるからとビートルに乗り込み帰っていった。
 黒とターコイズブルー、鮮やかな夏の光を浴びて並ぶ二台のパンダの姿はカタログ写真のようで、私は近くに寄ったり、遠巻きに眺めたりと、改めてその洗練されたデザインに魅了されていた。
「ミチヨは、ほんまパンダ好きなんやな」
「そうだね、この子じゃなかったら、そんなに必要もない車なんて買わなかっただろうし」
「おーい、無事に帰ってきたことやし、記念撮影といこか」
 家から出てきたオサムさんの手にはカメラがあり、パンダの陰に隠れようとした私の腕をしっかりと握って離さないピアノに引き留められ、私達はカメラのフレームに納まった。写真を撮られるなんて、前回がいつだったかも覚えていない。
「あの、オサムさん、修理代のことだけど……」
「そんなん、かまへんで。ピアノにツケとくから」
「はぁ? 何それ!」
「それは、さすがに…… いくらぐらいかな……」
「ほんま、ええで。調律代と歌のギャラで差し引きゼロ! ってことにしとこや」
「それは嬉しいけど…… ほんとにいいの?」
「じゃあ、ミチヨ、もう一個お願い聞いてや!」
「お願い? まだ他にも歌わす気?」
「歌は、あの二曲だけやから心配せんでもエエで! そう、でもな、その前に早よご飯食べよー、お腹ペコペコや」


 遅い朝ご飯も食べ終わり食器を洗っていると、オサムさんに歌をいつ録るか尋ねられる。歌詞についてまだ考えたかった私は、もう少し時間が欲しいと伝えた。だけど、録音を伸ばしたところで、私はいつまでここに居るのか、ということも脳裏をよぎる。パンダが戻ってきた今、録音が済んでしまうと、ここに居る理由は無くなるのだから。
「洗い物終わった? じゃあ、出掛けよ。久しぶりにミチヨのパンダ乗って、それと調律道具も持ってきて」
 ピアノに言われるがまま調律道具を私のパンダに積み込み、エンジンを掛けたが、不思議なことにラジオは鳴らなかった。
「おかしいな、ラジオ鳴るはずなんだけど」
「ええんちゃう、きっと直ったんやって」

 久しぶりに運転する愛車は、これまでにないぐらいすこぶる調子が良かった。このパンダの助手席に髪を靡かせたピアノが乗っていることで、ここへ来た長い道中のことを思い出す。そして、ピアノとなら、どこまででも行けそうな気になる。これまで見ていたちっぽけな世界で尻込みしていた自分、恥ずかしさで何もしてこなかった私が、それこそ、世界中どこだって、何なら、世界の果てへだって行けそうだと…… 助手席にピアノが一緒だったら……
「――次の道、左な」
「OK、それでさ、まだ調律が必要なピアノがあるの?」
「そう、そやけど、この調子でミチヨにお願いしてたら、志摩中のピアノを調律することになりかねへんな!」
 大爆笑しているピアノ。実際のところ、それでここに居る理由が出来るのであれば、ちょっと、それでもイイな、と思った。私が調律をして、ピアノが演奏する。パンダは道を走り、次の調律を待つピアノの所まで……


 鵜方駅を越え、横山展望へ曲がる道も過ぎ、あの日、志摩へ訪れた道を遡る。伊勢から峠のトンネルを抜けると別世界の光に包まれ、潮風を初めて感じたことを思い出しながら。
 ピアノの指示に従いながら緩やかな道を進むとやがて民家も少なくなり、両側の切り開かれた狭い土地には田畑が広がり、その背後に茂る木々はのどかな風景を醸し出していた。青々と立派に育った稲の上を風が渡り、草や土の香りを暑さと共に運んでくる。澄み切った空に浮かぶ雲は光を帯び、田んぼの脇にぽつんと建つ鬱蒼とした木々に囲まれた小さな御社を通り過ぎる。ここでは、うるさい蝉の鳴き声にさえも情緒を感じる。
「この辺り、素敵な風景だね」
「夏草、ってとこ」
「ナツクサ?」
「サマー・グラスか、英語やと」
「夏草か…… 不思議な地名……」
 集落の路地へと入り、パンダ一台分ぐらいしかない幅の道を抜ける。戻れるか少し心配になりながら進むとやがて木々に囲まれた広い畑が現れ、その脇に荒れた庭のような場所があり、道はそこで行き止まりだった。
「そこらへんにパンダ停めたらええわ、調律道具持ってきて」
 畑の脇に停めたパンダから降りドアを閉めると、蝉の鳴き声も風も止み、急に世界は止まった気がした。一瞬だったかもしれない、ただ、時間の途切れたような間が私には感じられた。草の生い茂る中を突き進むピアノの後ろ姿、それもまた、別の時間を歩んでいるように思えた。
 外からは茂みや低木に隠れていたが、そこには一軒の古めかしい平屋があった。古いだけではない。もはや現実の時間からは、そっぽを向かれたように隔絶し、周囲を取り囲む育ち盛りの夏の草木とは対照的で、私が思い浮かべたのは、砂浜に打ち上げられた数々の漂流物の成れの果てだった。そう…… 誰にも知られることもなく、語り掛けることもなく、朽ちるのを待つばかり……
 年季の入った玄関の引き戸を鍵で解錠したピアノは、両手で戸の枠を掴みガタガタと動かすと戸はすんなりと横に開いた。
「ここって……」
「ん? ワタシのウチ」
 ようやく、ぽっかりと口を開いたような家だが、黙ったまま言葉を忘れ、いたずらに過ぎる時を時間の外からぼんやりと眺めているようだった。

「ボロい家やけど、まあ上がって。スリッパ履いてな、足の裏、黒なるから」
 時代を超越していると言えば聞こえも良いが、実際、黴臭さも無く、無事に時を経ているだけあって、建物のつくりはしっかりしているようだった。玄関から左手に折れた廊下の先は微かな光も届かず、薄暗い中、床を軋ませ進むピアノに案内された部屋はさらに暗かった。雨戸を開けるからと部屋の前で待たされた私は、暗がりに慣れてきた眼で闇の中に潜むグランドピアノの姿を認めた。それは、微動だにせず眠っている黒い雌馬のように見えた。
 木製の雨戸の甲高い擦れる音が響き渡ると、一気に部屋へと光が溢れ出した。きらめく埃が空を漂い、秘められていた家の芳香は放たれたかのように香り、光のシルエットに包まれたピアノの顔は逆光でよく見えない。記憶に刻まれる永遠の瞬間があるとすれば……  今だった。
 私の生の中心へと何度も繰り返し打ち付ける蝉の鳴き声だけは、こんな時にも実感を伴い耳へと伝わってくる。五線譜を失った今も音だけが、現実と私を繋いでいるのかもしれなかった。
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