1994年7月25日 [ 1 ]

文字数 995文字

 もし、あの日、ピアノを送らずにエッサウィラから独り帰っていたら…… もし、幼かったあの日、調律に心を惹かれなかったら…… 人生なんて、そんなことの繰り返し。ペンをコツコツと額へ打ちながら、頬杖をついて洗濯物が陽光を浴び風になびくのを眺めていた。きっと、もう乾いているのだろう。随分と空けていたように感じるこの家も、帰宅し、寝て目覚めてみると大した変化もなく、ずっと変わらずここに居たように感じる。だけど季節は変わり、部屋の物も少しばかり増え、これまで小学校の夏休みの宿題ぐらいでしか書いたことのない日記を書いているのだから、私は大きく変わったのかもしれない。
 今さらながら志摩の朝には独特の香りが漂っていたことに気付かされた。遠く離れてから知ること。似たような香りは他にもあるような気がするけれど、はっきりとは分からない。ただ、生活のふとした光景の中で香る思い出のようなものに、それは、これからなってゆくのかもしれない。
 ベランダの乾いた洗濯物を取り込むと、部屋から望む空はすっきりとした。マグカップを片手に再度ベランダへと出て、残り少ない冷めた珈琲を飲み干し、煙草に火を点ける。ここには屋根も無く、芝生の代わりに街並があり、都市特有の熱い風が吹いている。青い空に引かれた電線を見て、五線譜を懐かしむ日が来るなんて正直思いもしなかった。

 旅の終わり…… 最終日を残して止まった筆。数日前のことだから決して思い出せないはずもなく、むしろ書き進めるのを躊躇う私がいた。書くのが楽しいのだろう。そうなると、終わりを迎えるのは辛い。それが単なる十日と少々の出来事だけではなく、四半世紀程度だけれども人生における長い探求の結末も同時に訪れたのだからなおさら。
 現実を考えているこの瞬間にも全ては次から次へと過ぎ去ってゆき、私の腕の陽に焼けた皮も剥がれ始め、今というものは常に変わってゆく最中だからこそ、まだ微かに残る近い記憶が明らかに遠ざかるのは私を無性に淋しくさせる。
 おそらく、ある一つの音の響きは終わった。新しく鳴り始めたはずの音の存在が確かだという実感はまだない。これから続いてゆくであろう長い日々における束の間の空白のようなこのひとときを、あの志摩の朝に香る思い出のように、いつかまた記憶の中で懐かしむ日として訪れることがあるのかもしれないが、今は音も無く、ただ静かな時の狭間で私は漂う。
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