2004年7月23日 [ 1 ]

文字数 1,877文字

 隣室から聞こえるがさつな音で目覚める。おそらくフレッドだろう。ベッドから手を伸ばし、サイドテーブルに置いていた腕時計を手に取り確かめる。午前、正午まで幾分か時間はあった。少し肌寒く、肩までシーツに包まる。飲酒翌日の喉の渇き、足の疲労、熟睡したとは言えない身体の怠さ、アメリカでの目覚め、夢の中の日本語、時折思い出す五線譜、調律作業の指先に入れる微かな力、空腹…… 横になりながら、突然浮かんではすぐに消えるイメージに浸っていると、私は二度寝していた。アメリカでの目覚め、夢の中の変な英語、枕元に転がっている腕時計を手探りで掴む。さっきから十五分が経過…… 起きて支度をしないと…… 彼がやって来る……

 隣室の騒がしい音が止み、フレッドが階下へと下りてゆくと、私はベッドからゆっくりと起き上がった。足の先端が冷えている。まどろむ布団の中で温かい人肌に足の指が触れる心地良さをふと思い出したが、そんな心地良い日常からは随分遠い所に居るような気がした。ここが異国だからとかではなく、もっと個人的な素直な気持ちの中の自分との距離。
 妙な気分を抱えたまま、バスタオルを手に浴室へと向かう。このようにプライベートな感情が思考を覆っているような時は誰とも話したくも会いたくもなかったので、廊下に人気が無いのを確かめ、気配を悟られないように静かにドアを開け、浴室へと身体を滑り込ませる。冷たい便座に座り込むと、少し頭の血の気が引くような感覚に襲われた。嫌な予感が頭をよぎりつつも、重い身体に力を入れて立ち上がり、服を脱ぎ、冷たい浴槽へと足を踏み入れ、シャワーカーテンを閉める。蛇口の栓を緩め、お湯が出てくるのを待つ少しの間が嫌いなのと、シャワーに切り替えてから最初に出てくる管に残っていた冷たい水が出てくるのが嫌い…… そして、そういうことを深く考えてしまう時は、大抵調子が悪くなる兆候だった。頭から熱いシャワーを浴び、俯きながら排水口へと引き込まれてゆく湯の様子をじっと眺めていた。

 痩せた綿の大きなバスタオルで身体を拭き上げ鏡を見ると、アルコールの影響か顔はむくんでいた。冷水で顔を洗いながら顔のマッサージをしていると、また身体が冷え、くしゃみを一つ。結局、熱いシャワーを浴び直す。多分、この全てから守られた浴室から出たくなかったのが本音なのだろう。シャワーのお湯が頭を打つのに任せ、私は何もせず、しばらく突っ立ったままだった。母親になるって…… どうすればいいのだろう……


 気を紛らわしたかったのかもしれない。何かしていないと余計な考えが頭へ滑り込んで来るので、昨晩から色々とお世話になっているフレッドの為に私は昼食を振る舞うことにした。トマトやキュウリ、葉物をアボカドと和え、塩コショウ、オリーブオイルと少量の酢を掛けサラダを作り、ポテトを細かく切り刻んでたっぷりの油で焼き、ライ麦パンを添え、有り合わせながら、二枚の大皿に盛り付けた。調達した食材も底を突きかけているので、今日は買い物へも行かなければならない。これからは二人分になるから…… ちゃんと来ればの話ではあるが……

「――ホウ、昨晩は偶然が三度も重なって実に面白い夜だった。ホウ、いや、エディの件は、もう御免だな…… ホウ、とにかく、世界は俺が思っていたよりもどうやら幾分か小さいみたいだ。ホウ、どこかの街角で偶然に知っている人に出会う。ホウ、もちろん、毎日どこの誰だが知らない人ともすれ違う。ホウ、それが、いつの日か、どのようにしてだが長い人生の一ページで交差する瞬間だってあるわけだ。ホウ、ああ! 我が街サンフラシスコよ! 人と出会う街…… 我が愛する人には、いつ会わしてくれるんだい?」
「ふふ、大丈夫よ、フレッドなら」
「ホウ、なぜそう思うんだ? ホウ、学生の頃なら確かに女の子の知り合いもこんな俺にでもいたわけだが、今となっては夜な夜な頭のイカれた愛すべき住人達を相手に暮らしているだけだ。ホウ、これはダメだな、断じてよくない!」
「でも、フレッドはホテルも経営しているわけだから、いつの日かふらっとその愛する人が来るかもしれないじゃない?」
「ホウ、女性なんて滅多に来やしないよ、こんな風変わりなホテル。ホウ、そんなの変わり者の…… ミチヨぐらいさ……」
「あら、変わり者でゴメンナサイね、オーナー殿!」
 美味しい食事と楽しいおしゃべり。この束の間は私を遠くへと誘ってくれていたが、洗い物を終える間際、洗剤の泡が排水口へ流れるのを見ていると、さっきのシャワーと母親になることを改めて思い出していた。
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