1994年7月11日 [ 1 ]

文字数 6,254文字

あなたの屋根裏の日記 a diary in your attic


    T.S.へ 音について語り合った数々の日々に


1994年7月11日――車はエンストして、ラジオが鳴った。

「夕方からの東京の天気は下り坂。夜半過ぎには豪雨になる予報ですので、十分にお気を付けください――」
 FIATのPANDA、可愛い名の付いたこのターコイズブルーのイタリア車は、私と一緒で思い掛けないことが付き物だ。その一つに私の愛車はエンジンを掛ける度になぜかラジオが鳴り出す。今日は渋滞のど真ん中でエンストし、エンジンを掛け直すことに。意地悪な後ろの車が鳴らしたクラクションに急かされ、クラッチとアクセルを甘く繋いだのが原因。前も詰まっていて、ほとんど進めもしない、さらに考え事を中断させられたので少しイライラした。そうね、考え事なんてものは、ちょっとした隙を目掛けていくらでも頭の中へあれこれと飛び込んでくる。車のキーを回す度に鳴り出すラジオも、部屋の壁に貼ってあったポストカードが剥がれ落ちそうになっていることも、今日、家を出てから鳴った電話の相手も気になるし、何より鳴らされたクラクションが「A」の音だったこと、そう、それは一番の原因。長い付き合いになる絶対音感の弊害みたいなものとして、頭の中で勝手に存在するイメージ上の無地の五線譜へ、いちいち音符を記してしまう癖。これが駄目。ましてや、今まさに向かっているのがピアノの調律で、「A」の音、さっき鳴らされた「49A」の音が、調律作業の基準を決める始まりの音なのがタイミングとして最悪。駆り立てられるように仕事の今後、将来についてあれこれと感じるから、ついエンストをした。きっとそうなのだろう。

「――続いての話題は「宇宙」についてです。日本時間の今夜、アメリカのフロリダから発射される予定の日米合同長距離宇宙探査衛星ペン…… 失礼しました、ペンデュラムですが、現地フロリダの天候は快晴、予定通り準備が進められている模様です――」

 とりあえず、ラジオを消す。遠い宇宙のことでも考えて気でも紛れればよかったけれど、ここは快晴のフロリダとは違う都心へと向かう幹線道路。まだ梅雨明け前のこの空に広がる曇天に押し潰された街と私の気分はどんどん沈んでゆく。さらに、この湿度、重苦しい蒸し暑さ。車のオーバーヒートが恐くて、冷房を切った車内はことさら暑い。少しはマシかと仕方なく開けている窓も、渋滞で動かない周囲の車の熱気が車内に入り込むので、こうなれば若さで乗り切ってみせる、と念じるように耐えている。さすがに暑がりではない私でさえも、これでは夏本番を迎える前にオーバーヒートしそうで、白いTシャツの下で吹き出した汗が流れ落ちるのはとても不快極まりない。この環境では些細なことでもイラ立ってしまう。車のギアをトップに入れて、生温くてもイイので風を浴びながら、煩わしい音に付きまとわれないぐらいのスピードで車を走らせたい。その行先が仕事でなければ、なおのことイイけれど……

 それにしても、街中にはあらゆる音が溢れている。大抵は不快で無機質な音、そこへ人の有機的な声とがごちゃごちゃと絡まり合って、次々に上書きされ、どこが終わりなのかも分からないまま、私が逃げ出さない限り延々と続く。それに比べて調律の仕事は、可能な限り静かな環境下において一音一音と対峙するので、音に対してのストレスはないけれど、一体、私の調整した音はどこへ行くのか、そんなことがいつも不安になる。馬鹿げたことだと笑われるかもしれない、だから、そんなこと誰にも話したことはない。理想や憧れの音、果たして、それは私に作れているのか、そもそも、この先も私は調律をするのか、とまだ始めてから数年しか経たない半人前が、仕事を続けている内にいよいよ分からなくなってきている。これが仕事と将来への原因の一つ…… さらに、私は全くもって営業が下手…… 生活が安定する程に仕事があるわけでもなく、残念なことに当面の予定も全くない。少し貯金があった時に買った中古のこのPANDA、ギリギリの生活ところへ、かさんでばかりの修理費が家計をさらに圧迫する。こんなことばかり、もう何もかもが向いていないのではないかと思わされる……


 ここでテープレコーダーに吹き込んだ音声は一先ず途切れていた。きっと渋滞の車列が動き出したので録音を止めたのだろう。運転中に次々と駆け巡る思考の旅が面白くて録り始めた音声記録も、この頃は愚痴ばかりだった。気軽に話を聞いてくれる友達も、ましてや恋人も残念ながらいない。金食い虫の愛車の修理代と、日々の不安と、そんな愚痴ばかりが積もっていた。

 ここから先のことは、思い出しながら書いてみようと思う。


 汗だくになって都心の歓楽街へと辿り着いた私は、雑居ビルの合間の慣れた道を縫って車を走らせ、いつもの鉄筋剥き出し二階建て駐車場の詰め所前へと乗り付けると、出てきた見慣れない若い男の子へ声を掛けた。
「エッサウィラの駐車場で、お願いします」
「はいよっ、お姉さん。あっ、キーはそのままでイイっすよ。にしても、左ハンドルでマニュアルっすか。いやぁ、渋いなぁ」
「故障に修理でお金ばっかり掛かるけど…… でも可愛いイイ子なんだよ、この子」
 車から降りて助手席側へと回り、載せてあった商売道具の入る古くて茶色い革の重いトランクを引き摺り出すと、いよいよ仕事が現実味を帯び始める。ムンっとする湿気とエアコンの室外機が吐き出す熱風とが混じり合い、心なしか指に食い込んだトランクの持ち手は、湿気、もしくは手汗のせいでしっとりとして、辺りを包む鼻をつく匂いは、雨を予感させた。

 「エッサウィラ」はモロッコに実在する街の名を冠した小さなライブハウスで、夜になると辺りにネオン煌めく街角のボロい雑居ビル地下で一際怪しさを醸し出していた。大通りから入った小さな通りの、さらに奥の路地に面した陽の当たらない入口の階段は、まだ夕方前だというのにすでに薄暗く、あまり掃除の行き届いていない急な傾斜の階段の隅には、いつも煙草の吸殻が一つや二つは必ず落ちていて、そのまま上の方を見上げれば装飾と見間違うようなたくさんの垂れ下がる年季の入った蜘蛛の巣があった。これが、知る人ぞ知る秘密の店ならまだ聞こえもイイが、もしかしたら、ほとんど誰も知らないのではないかとつい心配してしまう。階段を踏み外さないように慎重に一歩ずつ重い荷物を抱え下まで降りきると、今度は幅がそれほど広くない重厚で鉄の錆びた色をした防音扉が立ち塞がり、片手で開けようとしても気圧差と扉の重量で歯が立たない。荷物を一度下ろし、両手で取っ手をしっかりと握り、少し踏ん張って勢いよく手前へ引くと、流れ出す風と共に遠い異国の香りが溢れ出す。店主の趣味で焚かれた外国製のお香の香りに包まれると、ようやくエッサウィラへと辿り着ける。

 オープン前の静かな狭い店内は薄暗く、昨晩の清掃の名残りだろう、二つしかない丸い天板のテーブルは店の隅に追いやられ、その上で各四脚、計八脚の木製の椅子がひっくり返され、その哀れな脚を天に真っ直ぐ晒している。そして、小さな、本当に小さく申し訳ない程度のステージらしき僅かな高さの段差の上に据えられた黒光りするグランドピアノだけが、スポットライトの光をこの暗闇の中で唯一浴びていた。私の知る限り、この店の入口は入って来た扉一つしかない。あの急な階段を降り、狭い扉をくぐり、狭い段差上の大半を占拠するこのグランドピアノをよく搬入出来たなと不思議に思う。最小サイズのグランドピアノでもなく、分解しても難しそうな巨体をどうやってここへ運び入れたのか。以前、店主に一度そのことについて質問してみたが、笑ってはぐらかされ、まともに答えてもらえなかった。全く謎のままだ。しかし、何よりも謎なのは、ここの佇まいやグランドピアノよりも怪しい、この店の主だ。
「あらヤダ、美千代ちゃん、おはよう。もう時間なのね、イヤになっちゃうわ」
 人にマダムと呼ばせるこの年齢不詳の店主は、決して本人の前では口にしないけれど、元男性だったであろうことは厚化粧でも到底隠しきれていない雰囲気で一目瞭然だ。首筋の血管が浮き出るほどの華奢な身体をいつもシルクのような光沢のある白や紫といったきらびやかな男物の装いで包み、手の指には大小様々な宝石の付いた指輪をいくつもはめている。昔に読んだ何かの本で、本物の宝石よりもガラス玉の方が輝く、という話が正に当てはまる程、それらはこの暗い店内でも不気味に光を放っていた。
 そんなマダムは店のピアノ調律の仕事の一切を私に任してくれているので、とても有難く思うのだけれど、調律費用がまともに支払われたことは一度もなく、常に以前の支払が滞っていた。催促をしたところでピアノの話と同じ、これも常にはぐらかされる。そんな弱気な私相手だから調律を頼んでくれるのか、と複雑な気分にもなるけれど、人柄を嫌いにはなれないところがマダムの魅力なのだろう。
「じゃあ、いつものように調律お願いちゃんね。私、ちょっとお店の買い出しに行ってくるから、あとはよろしくね」

 語尾の特徴的な「ね」のイントネーションが、仕方なく頭の中で音符に変換される。騒がしさを引き連れたマダムが出て行く後ろ姿を見送ると、音が一斉に引いた地下室へ、今度は静寂が一気に押し寄せてきた。私も可能な限り音を立てないように床の上でトランクを開けると、調律に必要な道具を取り出す。作業に取り掛かろうと顔を上げたその時、屈んだ見上げた位置にあったステージ後方で波打つ深い青色のベルベット素材のカーテンが、とても穏やかな海のように映った。立って近づき、指先でカーテンに触れると想像通りのベルベットの質感で、至近距離ではその細やかな起毛は、到底海のようには見えなかった。不思議に感じた私はカーテンを眺めながら後ずさりをし、そのまま小さなステージから降り、トランクの側を通り過ぎて客席のテーブルに身体がぶつかったところで、予期しない海を背景に佇む黒い馬を見たのだった。


 ――鍵盤の蓋は開けると、いつも甘い香りがした。それが好きだった幼い頃の私は、歳の離れた兄の為に親が購入したアップライトピアノの蓋をこっそりと開けてはその甘い香りに度々酔いしれていた。この頃のことが一番古い私の記憶だと思う。
 そんな遠い記憶の春の昼下がり、家に知らないおじさんがやって来て、母親がピアノの置いてある洋間へとおじさんを通した。幼い頃なんて知らないもの全てが怪しく見えるもので、ましてや自分の家に自分の知らない人が居ることは一大事だった。その後、大人になって母親から聞かされた私の話と自分の曖昧な記憶を合わせると、こんな感じだろう……

 部屋の外の家具の影から隠れるようにじっと見ていた私は、好奇心に駆られて近付き、部屋を覗き込もうとすると、ちょうど部屋から出てきた母親と出くわし、「美千代は、あっちへ行ってなさい」と軽くあしらわれた。今と違って大胆な性格だったその頃の私は、母親が客人へのお茶を用意している間にこっそりと部屋へ忍び込み、おじさんに話し掛けた気がする。おじさんは真っ白なシャツに黒いパンツ姿で、背は子供には随分高く見えた気がするけど、実際は母親より少し高いぐらいだったと思う。黒々とした髪はきっちりと撫で付けられ、もみあげと繋がる程の髭は綺麗に整えられていたが、周囲に髭を蓄えた人もいなかったので不思議な生き物のようで私は興味津々だった。おじさんは突然現れた私に「ピアノは好きかな?」と尋ね、私は好きだとはっきり答えたことを覚えている。その時のおじさんの屈託のない笑顔、今も記憶にあるおじさんの顔はいつもこれだった。
 お茶を運んで来た母親に連れて行かれそうになった私をおじさんは大人しくするという約束でそのまま部屋に残ることを許してくれた。申し訳なさそうに出て行った母親をよそに、本棚とか季節外れの衣装ケースが置かれた倉庫代わりの狭い部屋で私は、硬い木の床の隅に正座をしておじさんの作業が始まるのを見守っていた。
 おじさんが黒い外装の板を外すと、見たこともない姿へと変貌したピアノは私にとって衝撃的だった。露わになった内部のおびただしい数の木の部品、おじさんは鍵盤を一つ叩いてはピクンと動き音が鳴るピアノの構造を、言葉は使わずに面白おかしい顔の表情で示してくれた。きっと私は驚きの顔で眼を輝かしていたに違いない。そして、おじさんは椅子に腰を下ろすとピアノを弾き始めた。音の現状を確かめるように八十八鍵、低い音から高い音までをくまなくカバーする軽やかな指の動きは、それまで兄の弾くぎこちない演奏しか見たことのなかった私にとって魔法のような音を生み出す瞬間だった。調律も少し狂っていたであろうが、それゆえ不思議な心地に包まれた私は、ちょうど窓から射す陽だまりの中で、いつしか崩れて溶けるように眠ってしまった。

 ここからの話を母親はもちろん、私は誰にも言ったことはない。例え話したところで夢でも見たのだろうと、まともに相手にされなかっただろう。
 まどろみから目覚めた私は馬を見た。黒い一頭の雌馬を。なぜ雌雄の判別が付いたのか、理由など決して分からないが、確実にそれは黒い雌馬だった。黒馬は音と共に突然駆け出し、私の視界から消え去った。その時、おじさんは鍵盤の上に細長い黒いフェルトをかぶせると蓋を閉めたのだった。調律は全て終わっていた。


 ――一瞬のことだった。私は眉間にしわを寄せ睨みつけるようにステージを見たが、そこには黒いグランドピアノがあるだけで、いつものエッサウィラだった。随分と古い記憶が蘇り、おかしなものを見た気分だったが、私はまだ何も手を付けていない作業のことを思い出し、大屋根と呼ばれる大きな天板を開けると気を取り直してピアノの前に座った。エッサウィラのピアノは、どこを開けてもピアノ特有の甘い香りはなく、隅々まで店で焚かれたお香の煙に燻されていた。鍵盤の蓋を開け、剥き出しの鍵盤に指を触れ、一呼吸置くと、私は試奏の為のトッカータを弾き始めた。

 調律用のハンマーを片手に作業をしながら、さっきの思い出が影響したのか、私は無意識に考え事もしていた。人生について大層なことは語れないけれど、私の場合、どん底の一歩手前で救われることが幾度かあった。人はそれを運命と言うかもしれないけれど、私はそう簡単にその単語で片づけることが出来なかった。私の日々の選択が導き、意図していないところで自らそこへ近づいている気がするからだ。もちろん、何か一つ選択が欠けても辿り着けないし、環境の影響で時期が変わることもあるかもしれない。それでも、たった一つのことが私を今日へと連れて来た。音の行方、その軌跡にいつも私は居た。

 誰も来ないはずのタイミングで、すっかり集中していたところ、突然室内に風が巻き起こり、重い扉の隙間から風が外へ「ビュー」と一斉に流れ出す音で、私は手を止め反射的に入口の方へ顔を向けていた。風は一瞬で止んで、そこに、へんてこで間抜けな音が聴こえれば、驚くよりもまず怖く、身体は硬直するのが正しい。ステージからは暗くてよく見えない入口の方から「ぴゅぽ、ぴゅぽ」と「F」「C#」の音を繰り返しながら現れたのは、全身ずぶ濡れの知らない女だった。
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