2004年7月19日 [ 4 ]

文字数 2,981文字

 パンクぽいファッションに身を包み、短い赤髪をツンツンに立てた、やせ細っているが筋肉質の男の後に続いて店舗のさらに奥へと行くと、そこには壁から天井までありとあらゆる面がポスターと飛び散ったインクの跡で埋め尽くされた部屋があり、さらに中央には部屋を圧迫する謎の大きな機械が一台置いてあった。見た目は回転しそうな形状でメリーゴーランドのような機械だが、金属の無骨なスタイルと謎の沢山のパネルが360度羽のように取り付けられ、この今にも飛び上がりそうな機械もまたこの部屋と同様、カラフルなインクで汚れていた。男は私に部屋の片隅にあったこれまたインクだらけの椅子を指差し座るように言ったが、服に付くのではないかと躊躇している私にインクは乾いているので汚れないと言い残し、またさらに奥へと続く別室へと姿を消した。
 仲は悪そうだが一応フレッドの知り合いであり、クリサリスの住人らしき人物だったので襲われる心配こそ無かったが、今から始まる謎のティータイムとやらがむしろ心配なぐらいで、とんでもないものを飲まされたらどうしようかと考えながら部屋を見回していると、たくさんのインクの容器やエレキギターなんかも置いてあったが、どれもこれも例外なくインクまみれ。この部屋でインクが付いていないのは私だけだと思いつつ、座るように指示された椅子を少し手前へ引き寄せようと背もたれに触れた瞬間、指にインクがべっとりと付き、晴れて私もこの部屋のお仲間と成り果てる。

 異様かつ暴力的な程に溢れる色彩の中で、視覚とは対照的な音の全く無い部屋は外と比べてひんやりとしていた。窓もないこの部屋は時間感覚が狂いそうで、自分の腕時計の刻む時だけが唯一の外界との接点だとも感じられた。椅子にも座れず、指のインクも乾かないまま立ちすくみ、時折時刻が進むのを確かめる。ほとんど進んでいない数字を幾度か見た後、ようやく奥の扉が開き、ティーポットとマグカップを乗せたトレーを持った男はこちらの部屋へと戻ってきたのだった。
「ヘイ、あんた座らないのか?」
 黙ったままインクの付いた指を男に見せると男はトレーを机の上へと置き、側にあった新聞紙の山の中から一部を掴みこちらへと放り投げた。しかし、インクの付いた指でキャッチする訳にもいかないので、新聞紙はそのまま床の上へと落ちる。男は新聞紙を椅子に敷けとゼスチャーしつつ、鼻歌交じりで湯気の立つ紅茶らしき液体をマグカップに注ぐのだった。
 座面に新聞紙を敷きつつ、束から引き抜いた一枚の新聞で指を擦るように拭きながら、男のハミングを聴いていると、どこかで聴いたような、もしくは知っている曲のような気もしたが、あまり深入りしないように決めていたので、敢えて曲名を尋ねるようなことはしなかった。さっさと紅茶と思わしきものを飲み、とっととここから出て、買い物へ行き、クリサリスでシャワーを浴びることを、新聞では拭いきれない汚れた指を眺めながら考える。
「OKだ、さあ飲んでくれ!」
 男が差し出した温かいマグカップからは、白い湯気と、美味しそうな紅茶の芳ばしい香が立ち上がっていた。口に含んだ適温の紅茶はこれまでに飲んだことのない程の美味しさであり、驚く私を当然だと言わんばかりの澄ました表情で見つめる男は、こう言い放つ。
「アメリカにも英国仕込みの旨い紅茶を出す店…… まあ質屋だが、ここにあり! ポーンの淹れる紅茶は格別だ! 英国王室だって愛用している茶葉だせ!」
 ポーンと名乗る男が威勢よく着ていたTシャツの左袖を捲し上げると、上腕にはチェスの駒のタトゥーが大きく彫ってあった。確か、ポーンと呼ばれる駒だったか……

「それで、あんたは何であんなクソみたいなクリサリスなんかに泊まっているんだ?」
 無茶苦茶美味しい高価そうな紅茶を一口飲んだポーンは私に質問を投げ掛ける。
「もう昔のことだけど、日本の田舎でここの古いポストカードを手に入れたの。いつか機会があれば訪れようと思っていたら、ちょうどサンフランシスコへ来る用事が出来たから泊まってみたわけ」
 ポーンは怪訝な顔をしながら紅茶を口に含むと、ポケットから煙草を取り出し、吸ってよいかと尋ねてきたので、私もメッセンジャーバックから煙草を取り出し、私達は煙草に火を点けた。立ち込める煙、男が壁のスイッチを押すと、天井に取り付けられたダクトが大きな音を立てて動き出し、煙は一瞬にして排気口へと吸い込まれていった。

 まともどころか大変立派な紅茶もさることながら、ニックネームとしてポーンと呼ばれるこの男には、外見や口調のわりにどこか上品な気質が垣間見えた。ほとんど儲からない質屋をしながら、この部屋のインクだらけの大きな機械でミュージシャンのTシャツだとかライブのポスターなんかを印刷しているらしく、そちらも貧乏なミュージシャン相手の商売でお金は儲からず、万年貧乏なことを自慢げに話しては大笑いする。ただし、茶葉だけは安物を買わないと決めているらしい。人のこだわりなんてものは大抵よく分からないものだが、このこだわりは理解出来た。
 結局、私はお茶のお代わりを貰いながら、ポーンと三時間も話し続けていたのだった。
「服が必要なら、店の中から適当に持っていけばイイ。代金はクリサリスへの請求に紛れ込ませておくさ」
「クリサリスへの請求?」
「ジョージが持って帰っちまうワイングラスの仕入先の一つがここだ」

 私は数枚のデザインの良い古着のTシャツと、古臭いパッケージの年代物デッドストックの婦人下着を一枚貰ってポーンの質屋を出た。
 改めて外観を見ても異様な雰囲気のショーウィンドウだった。ギュウギュウの物でガラスが割れないか心配になる。わざわざ見送りの為に店の前まで出てきてくれたポーンへ私は尋ね損ねていたことを聞いてみた。
「店の名前? そりゃ、これだ!」
 ポーンが指差すショーウィンドウの中心辺りに四角い何かがガラスにぴったりと貼り付いている。近付いてよく見てみると、どうやら12インチのレコードジャケットらしきもので、色褪せたのか、それとも元からそういう色だったのか、ベージュ色をした表面に「ELIZABETH COTTON VOL.2 SHAKE SUGAREE」と赤い文字で印刷されていた。
「シェイク・シュガリー、それが店名だ! 昔は違う店名だったらしいが、いつからか客がこのウィンドウのヴァイナルを見て、シェイク・シュガリーって呼ぶようになったらしいぜ。俺は聴いたことないが、質屋へ行って何でも売っちまう歌詞を黒人の婆さんが歌ってるんだとさ」
 不思議な響きのする言葉だったが、私は意味が分からなかった。でも、いつかこのアルバムを探して聴いてみるのもイイかもしれない。
「そうか! そうだ! 笑える、おかしいぜ! エリザベスの曲名を冠した店で! エリザベス御用達の紅茶を飲む! クィーン・オブ・クリサリス! ってか!」
 道の上で爆笑しながら「Sex Pistols」の「God Save The Queen」を大声で歌うポーンを見ながら私は思った。ちょっと風変わりなお店の風変わりなポーンだけど、フレッドの知り合いだけあってイイ奴なんだなと。そして、「God Save / 神のご加護を」とは…… 25セント硬貨に宿る神に私は導かれたのだろうか。
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