1994年7月11日 [ 2 ]

文字数 3,069文字

 早朝、天気は曇り、東京駅へ到着した夜行バスから降りると蒸し蒸ししてて、都会特有の生活臭が感性を刺激してくる。雑多な人々のあれこれ過ぎ去った時間の絞りかすの一つが正にこの匂い。こうして嗅いでると、遠くへ来た、という感じと共に、帰る時のことも早速考え始めてしまう。おそらく、全部何もかも辿り着く行く末は、懐かしさ、なんかな…… ワタシは、そう思う。
 とりあえず、まだ通勤ラッシュには早い電車で移動して、降り立った駅の近くをぶらぶらして見つけた二十四時間営業のファミレスで時間を潰す。トイレで洗顔、歯磨き、慣れない化粧を少々、そして、おかわり自由のコーヒーとタバコでひたすら人間観察。見ず知らずの人の心を勝手に想像しながら、その人の生活を考えてみる。夜通し遊んで疲れ果てた若いカップルは居眠り「帰る気力も湧きません」、いかがわしい仕事をしてそうなおっさんはスポーツ新聞を睨みつけるような眼差しで広げ「儲け話はあらへんか」、大層裕福そうな身なりでモーニングを食べるおばちゃんはパンの粉をボロボロと「食べることが生き甲斐なのよ」、そんな人達に給仕する忙しそうな早出バイトのお姉ちゃん「朝から忙しいし変な奴ばっかり」、そして、それらの人間模様を眺めるワタシもまた、今はこの光景の一部。人で溢れ、いつもの都会の朝に紛れ込んだちっぽけな異物を気にする者なんかここには誰もおらん。そうやって眺めて過ごす時間には、いつものワタシと乖離した思い掛けない調べが浮かんでは消えてゆく。無意識なワタシの指がテーブルを鍵盤代わりに演奏し始めるけど、いくらテーブルを押さえても音なんて鳴らんし、鳴っているのはワタシの頭の中だけで、誰にも聴こえへん音楽。
 客が出て行けば新たに入って来て、色々と入れ替わり、三杯目ぐらいの無料のおかわりで飲む気も失せて残ったカップの中のコーヒーを覗き込むと、ワタシの顔がそこに映って居たので、置き忘れないように一気に飲み干した。冷たくてほろ苦くて酸っぱくて、ある意味では味わい深く、ここに居た時間のワタシはそんな気がした。
 コーヒー一杯の会計を済ませて店を出ると、昼前の暑さは増してて重苦しさに街は沈んでた。まとわりつくのは湿気だけじゃなくて、ワタシを含めた行き交う人達のノイズ交じりの感情なんやろな、と思わされる。あと、街の広告、ちょっと多過ぎて何が言いたいのか分からんし、駄目なバンドのライブみたいに互いが打ち消し合って埋没してる。

 地図を片手にとぼとぼ歩く知らない街は嫌いじゃないけど、これから行くのが仕事じゃなければ楽しいか…… そうでもない。この広い街は、きっと欲しい物だらけで、そんな物を見せつけられてもただ虚しくなる。贅沢できる余裕はないし、ファミレスのコーヒー一杯と自販機でタバコを一つ買うぐらいしか余分なお金もない。もし何でも全部買える程のお金を持っていても、永遠に満たされることなんてないのも想像が付く。ガードレールに軽く腰掛けて煙を燻らせ、眼の前の大きなビルを眺めてみても最上階に居る人のことなんて想像も出来んし、通り過ぎる人を見ても仕組まれたエキストラのようで、これが本当に現実なんかと信じられない世界が広がってる。通りから流れてくる最近の流行歌も、歪な現実環境の中でヒットする音楽は綺麗で心地よいものが求められ、歌われる言葉も贅沢で夢に溢れた虚構に満ちてる。憧れを抱いて人は、この都市を目指す。本質は誰も言わないし、語られることすらない。それで多くの人が満足しても、ワタシには物足りないし、何かが違う。
 時間になったので、消したタバコを灰皿に投げ入れ、ワタシは近くの雑居ビルのエレベーターに乗り込む。綿の大きなずだ袋の中をガサゴソしながらカセットテープを一つ取り出し、最上階の暗い廊下を通り過ぎて、突き当りのレコードの看板を掲げた店の扉を開ける。今日は、これをあと何回も繰り返さなあかん。

 どこのレコード店でも新譜のデモテープを手渡すと、慣れた手付きで受け取り、レジ横の似たような物が詰まれた山の頂上へと置かれ、「他に何か?」と顔に書いたような表情で無言で見つめられたり、うつむいて事務作業の続きを黙々と始めた。レコードやCDの一枚すら買えないワタシは、それ以上の会話をすることなく、一言お礼を言って店を後にする。
 毎度、ビルや店を出た瞬間に押し寄せてくる焦燥からの解放、少し離れたところですぐにタバコに火を点けて、上へ上へと立ち上り消えゆく煙を見送りながら「ビルの最上階に居る人なんかは儲けるのが上手いんやろな」と、ワタシはつくづく営業に向いてないなと思った。

 三時間半程掛けていくつかの駅を巡り、回らなあかん店は全部行ったし、次の予定までの空いた時間を潰す為、レコード屋の帰りに偶然眼に付いた大きな楽器屋へ入ってみた。
 平日の昼間で混んでるのに圧倒されつつ、店員さんに声を掛けられても買われへんから悪い気がして、人の陰に隠れるようにこそこそと店内を見て歩いた。へんてこな音の鳴るシンセサイザーやエフェクター、新しい録音機材、地元ではありえへんぐらいたくさんの量の高いのやカラフルなギターやベースが壁一面に吊り下げられてた。これだけあれば何でも面白いことが出来そうやけど、その前に一つ一つの音色や感触を確かめている内にまた新しいのや中古の掘り出し物が出て、延々それを集めてるだけで人生は過ぎ去ってしまう気がする。だから、ワタシの音楽に必要なのは工夫と引き算で、これは貧乏人の負け惜しみではなく、そう前に思ってしまったから、そこにある何かを今は探してる。それは聴いてて気持ち良くなかったり、物足りないものかもしれんし、もはや音楽じゃないって言われるかもしれん。肉薄する音楽、ワタシの探す……
「何かお探しですか? これは、今週発売されたばかりの新商品で――」
 ワタシは、無言で逃げるようにその場から立ち去りながら、もし、ここにある楽器やらあらゆる音の出る物が全部同時に鳴ったとしたら、都会の広告やら建物、車や電車、そして、人なんかに似ているかもしれんと思った。

 普段、ほとんど電車に乗らないので、眼を閉じて電車の音に耳を澄ますと、インダストリアルで孤独なリズム、そんなミニマルな世界に没頭する。どこまでも続くようで、すぐに弱まり止まる。都会の駅間は短い。そして、また一から始まり、人の会話、新しい上音が加わって、雨粒が窓にぶつかり、速度は水滴を引き伸ばし、雨に関する会話が車内で沸き立ち、すれ違う反対方向の列車の風圧で扉が弾かれ大きな音を立て、またすぐにリズムだけがゆっくりと、会話だけが延々と続き、やがてリズムはなくなり、上音だけのヌケになる。始発から終電まで繰り返される今日の音楽。
 電車から降り改札へ向かうと、突然の雨で駅から出るに出れない雨宿りの人々の何重もの壁があった。その人の集団の中に留まることで感情を掻き乱されそうな気がしたワタシは、人を掻き分け壁の先頭へと出ると雨降る街へ独り駆け出した。傘はないし、びしょびしょになるのは確定で、その場から逃げることが唯一、その時ワタシが心穏やかになれる方法やったから仕方ない。陽気な歌の一つでも口ずさみながらスキップでも出来れば上出来やけど、多分、朝から色々我慢してたんやろな、そんな余裕はなかった。着ていた黒い麻のゆったりしたワンピースがどんどん濡れて重くなって、走るのに鬱陶しいぐらいべっとり身体に貼り付いた。都会を駆ける一匹の濡れネズミか…… ワタシは。
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