1994年7月22日 [ 4 ]

文字数 4,886文字

 時間から去ってしまった誰かに再び出会うなんてことは出来るんやろか…… 記憶以外の場所でそんなとこあるんやろか…… 時間と共に薄れてく、全てが、音も例外じゃない。一音鳴らす。余韻。次の音を鳴らす。余韻。和音を鳴らす。深層。変化した和音を鳴らす。感情。低音を鳴らす。視線。さらに低く鳴らす。伝播。足の裏で打つ床の音。鼓動。細かく刻む床の音。振動。いつしか始まった曲は終わりへ向かい、何度も締めようと試みるけど、反復記号に連れ戻されて、弾いてる曲の意味さえも分からんなって、指は止まる。誰かや何かの為に演奏なんか出来ず、ワタシの音楽はワタシのもんやと思ってたけど、終わらし方も分からへん曲がある以上、案外、そうではないんかも…… まだまだ続きそうなピアノソロでフェードアウトしていく曲。こんなところで終わるはずのない意思表示と、一つではない感情の理由。


 ヘッドライトが闇夜に引く道を走る。向かうこと全てが往路であるならば、復路なんてないのかもしれない。もし、私がこれから進む道を復路と認識した時、すでに過ぎ去ったどこかに折り返した基点が存在し、ついに終わりを迎えるのだろう。でも、まだそこじゃない。アクセルを踏み込む右足は、いつもより緊張していたかもしれない。夜風と共に窓から紛れ吹き込む、いたずらな思考。一度、道を間違えたりもしながら、私は何とか夏草まで戻ることが出来た。


 暗い家の中を灯りも点けずに歩くことが出来ても、ワタシの知りたいことが手に取るように分かるわけじゃない。灯りがあれば、なおさら見えへんなる。灯り…… 灯台…… 初めて夜の灯台を見た時、一筋の光が横切りながら力強く夜空を切り裂くのがやけに淋しく感じたあの日のワタシ。灯台は、こちらへは振り向きもせず、ずっと海を眺める。光は、海の上で陸を目指す者の為に点されてた。灯台を信じるのは、いつかワタシが真っ暗な大海原を漂っている時に光を届けて欲しいから。そう…… 今…… でも、家の中でも屋根裏はとくに記憶が多くて、あらゆる種類の感情が押し寄せる。もう、この世でワタシだけしか知らんことで満たされた穏やかな波間に浮かび、随分遠くまで流されてきたばっかりに灯台の光はワタシまでは届かへんかった。海の囁きもやがて言葉を失って、残ってたのは月と星だけで、あとは闇の中…… 「闇」の字の中にあるはずの「音」は決して鳴ることなくて、近すぎて分からへんかった暗闇は、黒い雌馬の一部を見つめてたに過ぎひん……


 パンダを停め、灯りを消すとピアノの家の周りは真っ暗だった。目覚めると夜になっていた午睡のように、私は幾分かの時間が急に飛ばされた感じがして戸惑った。やがて木立の先と夜空を分かつ境界線が慣れた眼に映る。月も星もさっきとさほど変わったようには思えず、空間を支配する蛙や虫の鳴き声は、落ち着いて聴けばより大きさを増していた。夜、とりわけ戸外は彼らのものであり、本来、私達が越えてはならない領域の最後に日没があるのかもしれない。
 恐れを少し感じながら、小走りで草を掻き分け近付いた家に灯りはなく、ピアノも居ないかと心配になったけれど、玄関の引き戸は開かれたままだった。


 遠くから徐々に近づいて来たエンジン音が止んで、随分離れたところへ連れ去られていたワタシも戻ってくる。もう少しで届きそうなもんを掴み損ねた心残りはあるけど、もしかしたら、それはまだ知ったらアカンのかもしれん…… ここへミチヨが戻って来てくれることで、ワタシはこれまでよりも遠くまで行けたし、こうして考えていられるのもミチヨが絶対戻って来て、手を掴んで引き上げてくれるって確証があったから……
 帰り支度をする為に屋根裏から下りてくると、昔懐かしい癖で台所の振り子時計をワタシは見ていた。屋根裏には時計が無くて、階段を下りたら、まずは時間を気にしてた小っちゃいワタシ。それと、振り子時計が止まったらゼンマイを巻くのもワタシの役割やった。ワタシの役割……


「ピアノー、居たら返事してー」
玄関から真っ暗な家の中へと私は恐る恐る声を掛けた。
「カチカチカチ…… カチカチカチ……」
 返事が無い代わりに聴こえてきた不気味な音。
「ちょっと…… からかうのはやめてよ」
「カチカチカチ、カチカチカチ」
「だから! いいかげん――」
「――ミチヨ、こっちー。玄関から真っ直ぐー」
 聞き取りにくい小さな声だったけれど、ピアノが居たことで私は安堵した。靴を脱いで、スリッパを探して履き、言われた通りに暗い廊下をゆっくりと進むと、キッチンの擦りガラスの手前にピアノのシルエットがあった。
「電気止めてるから灯りも点けれへんけど」
 ピアノは柱の前で「コッ、コッ、コッ」と音の鳴る何かを見上げるようにしていた。
「ピアノ? 何してるの?」
「時計の時間が止まってたから、ゼンマイ巻いて進めた」
 私達が黙ると暗がりには時計の音だけが響く。振り子時計だろうか、目を凝らして見たところで短針は正確な時刻を指し示しているようではなかった。
「これって、調整しないと今の時間と大分違うんじゃないの?」
「いいねん、止まってたん動かしたかっただけやから、これでいい」
 妙な話だった。いわゆる世の共通の時間の他に流れている時間がもしあるとすれば、正にこの振り子時計がそうだった。いつから止まっていたのかは知らないけれど、さっき久しぶりに動き出した時計は、一度は死んだはずの時間の続きを刻み始めた。何の為にピアノは今さら時計を動かそうと思ったのか。やがてまた、止まる時計を。

 グランドピアノがある部屋へ私は帰り支度をするために独り調律道具を取りに行った。それは、必要のない口実だったのかもしれない。雨戸がまだ閉められていない部屋は、少しばかりの月明りの中に仄かに映し出されていた。曖昧な光景の一部に足を踏み入れ、私は小箱の中から真珠のイヤリングの対になった片方を取り出すと、鍵盤の蓋を開け、そこに横たわる黒いフェルトの上へと、そっとイヤリングを置き、静かに蓋を閉じた。長い時を経て成長するアコヤガイの中の真珠。これまでの私からのお礼と、この先への願いの為に…… グランドピアノのそのフォルムもまた、アコヤガイによく似ていた。


 オサムさんの家へと帰る車中、落ち着いた声で語るピアノの話に私は耳を傾けていた。それは、こんな話……

 調律師だったピアノのお父さんは、身体の弱いお母さんと幼いピアノを残し、ほとんど仕事が無い田舎を離れ単身東京へと出稼ぎに出ていた。おそらく、私が出会ったのも、その頃で間違いはないだろう。私のことはさておき…… 

 頻繁ではなかったが年に幾度かお父さんは志摩へ帰省し、あの家でお母さんと二人で暮らしていたピアノにとってそれは楽しみであり幸せな時間だった。
 ある日、お母さんが突然体調を崩した。まだ幼かったピアノは狼狽し、救急車を呼ぶことも分からず、祖父母へ連絡することも、近所の人に助けてもらうことも考えが及ばず、お母さんは成す術もないまま不運にも布団の上で眠るように亡くなった。初動を誤ったとピアノが知るのは、後に大きくなってからのことだった…… 何も出来なかった幼いピアノは、翌日ちょうど掛かってきた祖母の電話で事の顛末を告げ、そこからの慌ただしい展開は、ほとんど覚えていない。祖父母の家に連れて行かれ、惨めな気持ちでお父さんが来るのを待ったピアノだったが、全ては後手に回り、祖父母から東京で働くお父さんへ連絡が入ったのも一日半ずれ、親子の間に隔たる実際の遠い距離のせいで、お父さんが駆けつけたのは、その翌日のことだった。

 それからピアノは祖父母の家で生活することになったが、お父さんは以前と変わらず出稼ぎに出たままだった。あの日以来、暗い感情しかない祖父母の家での生活はピアノにとって辛く、小学校も転校したことで友人もいなくなってしまう。それでも祖父母が悪いわけでもなかったので、お婆さんがお母さんの昔話をしてくれる時は嬉しかったそうだ。ただ、お婆さんは話し終えると涙ぐんで、それをどうすることも出来なかったのがピアノにとっては心残りでもあると。

 漁師の家庭に育ったお母さんは、小さい時から身体が弱くて、海女だったお婆さんのようには将来なれないだろうと、その時代には珍しく家にグランドピアノを買ってもらい、お母さんはピアノを習い始めた。お婆さんはローンを返す為によく働き、お母さんもそれに応えるようにいっぱい練習をして腕は上達していった。それでも、身体の調子が良くなることはなかったので、寝込んで弾けない時など大好きなグランドピアノの真下に布団を敷いてもらい、そこで療養したそうだ。
 月日は流れ、何とか無事に大きくなり高校を卒業したお母さんは、お世話になっていたピアノの調律師さんの知り合いで、年頃の男の人と出会う。そう、それが調律師になる為に修行中だったお父さんだった。

 ピアノに話しを戻す。中学校に上がると、これまで知らなかった地域の生徒と出会うことにピアノは初め戸惑った。これまでも人と接するのが苦手で、友達も無く、ほとんど独りで過ごしていたからだ。この頃にお母さんの形見のグランドピアノを独学で弾き始めたとのこと。次第に学校へ行くのも億劫になり、登校しても途中で授業をさぼるようになった。みんなが真面目に授業を受けている時間に独りぶらぶらしていると、そんなことをしている生徒がもう一人いることに気付く。彼は自然にピアノに声を掛け、ピアノはすんなりと彼の声を受け入れ、二人は一緒に行動するようになる。オサムさんとの出会いである。ただし、その時のことをピアノは、こう付け加えた。
「確かに、あの時のワタシはいっつも独りで話す相手もいいひんし、声掛けられたのは少しぐらいは嬉しかったけど、あいつも独りで、イイ加減友達が欲しかったんやで、きっと」だそうだ…… それでも二人は音楽や映画、本、ファッション等、急に現れた気の合う相手と全力で時間を共有し、毎日の生活は急激に楽しくなったことだろう。

 高校卒業後、将来について何も考えていなかったピアノは海女にでもなろうかと思ったが、その頃に祖父母が相次いで亡くなり、そして、翌年にお父さんも亡くなった。一人、また一人と家族が消えてゆく中、この頃は葬式やその後の遺品整理、手続きといった暗い記憶しかなくて、今でもあまり思い出したくない時期だという。関西に住む父方の親類とは付き合いもなく関係が薄かったので本当の独り、天涯孤独となったピアノ。
 その頃、漁師の手伝いのアルバイトで忙しくしていたオサムさんは、ピアノを励ます為だろう、引きこもっていたピアノに会いにきたそうだ。きっと優しいオサムさんがピアノをほっとけなくて、一緒に住もうって誘ったはずだと思うが…… ピアノの言い分は違った。
「あいつがすでに今の一軒家に住んでて、部屋余ってるし、音楽スタジオ作るから、手伝ってほしい、って。で、仕方ないから通ってたんやけど、その内に通うのが面倒になったから、そのまま居るねん」とのことだが、私は半分ぐらいが嘘だと思っている。

 四半世紀に及ぶピアノの人生のあれこれを聞いて私は、ピアノのような、人に語れる程の歳を重ねてきたかと考えたが、ドラマティックな生き様なんてものもなければ、これまでのところ迷って悩んで、ただいたずらに年月を消化していたに過ぎなかった。

 最後に、オサムさんの家へ着く間際、どうしても聞いておきたいことがあったので、私はピアノに質問をした。
「あの家にあったグランドピアノを最後に調律したのは、いつなの?」
「おとうさん亡くなる前やから、六年、七年ぐらい前かな」
「そうなんだ。それで、今回弾いてみて、どう思った?」
「うーん、そうやな…… 音が伝わるスピードって、本当は考えてるよりもっと遅いんやろな」
 家へと続く木々の中を抜けたヘッドライトの光は、ポーチで独りピアノの帰りを待つオサムさんを照らし出す。ピアノの人生には…… ちゃんと音が続いている。
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