2004年7月26日 [ 4 ]

文字数 2,263文字

 私が今見ているこの現実は止まったように静かだった。カフェには大勢の声が響いているのに、それらはここに存在しないように振る舞っているように映る。時間は次第に離れ、まだ時間として認識されていない何かが刻一刻と押し寄せて来る。その狭間で常に身を漂わせながら、私はどこへも行けず、いつも今と共に居る。あらゆることは動いているようでいて、実際、今の私からは常に身動き一つ出来ず、ただ、眼の前の現実は記憶となってゆく。次々と、そう、次々と……
 なぜ、蛾のイラストに「母は炎を目指す」と書かれているのか。眼でなぞるように、私は何度も言葉と絵を往復したが分からない。蛾のどこかにヒントが隠れていないかと、隅々まで注意深く調べてみたがカラフルな色彩以外何もなかった。再び言葉へと眼を戻す。全く入ってこない言葉の代わりに浮かぶのは、私に付きまとう不安や悩みばかり。母国語ではない英語に対し、限界を感じた私は本を閉じた。そこには、「EXODUS」という文字が現れ、カフェのざわめきが再び始まる。


 カフェの外は残酷で、現実的な問題や今からするべき行動を突き付きてくる。まだカフェの方がマシ、いや、さっきまで逃げ込んでいたこの本の方が意味は解けなくても全てから遠く、色々と忘れられたのでよかった。そして、今からどこへ行くのか決まっていないのは、どこか自分の人生の曖昧さのようにも思える。いつでも見ているぞと言わんばかりの太陽の視線。とりあえず、ここへ来た方向とは違う方へと歩き始める。空を自由に飛べない私にとって、少なくとも出来る限られた抵抗。しかし、何に対してかは、まだ知らないし、決まってもいない。

 知らない道を歩くささやかな優越感に浸っていると、見覚えのある風景に出くわした。大通り、バス停、そこにあった大きな建物の入口の大理石で出来た大階段には往来を眺めて座っているダニエルさん…… 映画を途中から観ているようなシチュエーションと、出来過ぎたセットのような一場面がこのサンフランシスコという街には点在しているのだろうか。
「あの…… こんにちは、ダニエル」
「ああ、君は確か……」
「ミチヨです」
「そうだった、ミチヨだ。元気そう…… まあ、どうだい、一緒に座っていかないか?」
 陽の当たる階段には私達の他に人は無く、通りを行き交うたくさんの人や車とは隔離されたような、やはり、ここは映画の中のようだった。何かについて語ることも無く、二人で並んで腰を下ろし、真っ直ぐ眺めているだけ。何をして、何を見ているのだろうか。その時、私達と同じように陽だまりへと誘われてやって来た一羽の鳩が地上へと降り立ち、首を前後に動かすあの奇妙なダンスを踊りながらダニエルさんへと近づくと、彼の良く磨かれた黒いローファーのつま先へと飛び乗った。だけど、ダニエルさんはピクリともせず、ずっと前を眺めているだけだった。その姿はまるで、ここには居ないような、どこか別の場所を見ているような、そんな感じだった。そして、ぴょこんと鳩は羽を羽ばたかせ靴から飛び降りると、綺麗な漆黒のつま先には砂埃で出来た鳩の足跡がいくつか残されていた。こんな代わり映えのしないシーンを撮り続けていても人生という名の映画を編集したら、ほとんど使われないだろう。むしろ、黙ったままの私達の画よりも、鳩の方がイイ演技をしているぐらいだった。どこかに隠れている映画監督の「カット!」の号令を待ち侘びる間、私はただ通りを眺めながら、「母は炎を目指す」について考えていた。

「あの…… この単語は、どういう意味ですか?」
 唐突に本を差し出し、私は気になっていた本のタイトルについてダニエルさんに尋ねた。どれだけ「母は炎を目指す」について考えてみても、一番重要であるタイトルが分からないままでは解釈出来ない。黙って本を受け取ったダニエルさんは眉間に皴を寄せながら、眼のピントを合わせるように本を掲げた。
「ああ、エクソダス、確か語源は旧約聖書のモーゼに率いられた人々の国外脱出とかそんなところだ。本の中は…… サイケデリックな絵が並んでるな。美術に疎いので作者の名は知らないが、60年代の…… やはりそうだ、ヒッピーかそんな感じのアーティストだろう。ざっと見る限りだと、既存概念からの脱出、まあ、そういうことが流行った時代の産物かね」
 ダニエルさんの手から私の手へと戻った本は、さっきまでとは違う新しい意味を含んでいた。脱出とは意外だったが、この本に導かれた私は、果たして何から脱出したいのだろう。
「あの当時、人々は行き詰っていた。まあ、いつの世もそうかもしれんがね…… 新しい価値観を求めて人々は旅立っていった。私とジョージは随分と多くのそれら人々の背中を見送ってきたもんだよ…… そう、見送って…… いつかは、見送られる」
 ダニエルさんは往来を眺めているようでいて、実際はもっと遠く、過去か未来か、それとも違う何かなのか私には分からなかったが、同じ場所に居る私とは異なるものを見ている眼差しだった。そこに何が映るのか…… 妙な動悸が私を襲う。出来れば考えたくないことを想像しながら、私は立ち上がる。
「ダニエル、今から一緒にジョージに会いに行こう」
 気持ちを落ち着かせながら、私は静かに言った。
「よし、行こう」
 私は手を差し出し、座っているダニエルさんを引き起こす。分厚く硬い皴だらけの彼の手は少し小刻みに震えていたかもしれない。街の雑踏も匂いも分からぬまま、私はタクシーを止めると乗り込み、クリサリスへと向かった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み