2004年7月25日 [ 4 ] 

文字数 2,811文字

「勝手ですね。親父もあなたも…… もちろん、心配してくれているのは分かります。俺だって実際に中途半端だし…… でも、騙したり嘘を付いてまでして事を運ぼうとするのは、どうかと思います……」
 全ては上手くいったと思ったが、最後の余計な一言が全てを覆した。言葉を残しキッチンから出て行ったアツカネを引き留めることは出来ず、ただ黙って彼の消えてゆく後ろ姿を見つめていた。呼吸をするのも忘れる程に張り詰めていた私は、大きく息を吸い込み、そして、絞り出すように息を吐き出す。そんなことをしてみても、時が止まってしまったように、キッチンは静まり返っていた。飛び込む穴を間違えたのだろうか…… 同じことを何度も繰り返し考えながら、放置されていた萎びた野菜を摘まみ口へと運ぶ。新鮮さを失った野菜はやけに苦い。


 陽が暮れてゆくのをそのままに、灯りも点けず独り椅子に座り、キッチンを照らすのは小窓から射す僅かな月明りだけだった。室内とはいえ夜は少し肌寒く、それでも上着を取りに自室へ行く気も起らず、シンクには手付かずの洗い物が積まれている。済んでしまったことを今さら悔やんでも仕方ないのは分かっていても、私の身体はそれを拒否し、岩のように動かない。実際、力を入れれば動けるのは分かっていても、私の気持ちがそうさせてくれそうにはなかった。何もかもが遠い……
 ふと、記憶が蘇り、その断片が浮かんでは消えてゆく。自宅までの通い慣れた道のり、パンダの運転席、ハンマーに打たれ振動する調律弦、寄せては返す穏やかな波、夏のけたたましい蝉の鳴き声、どこまでも白い灯台の身体、独り過ごす惨めな長い夜、夜空へと舞い上がる蛾の羽ばたき、風に揺れる草の葉の露、ビン玉の中に閉じ込められた気泡、黒い雌馬の駆けてゆく後ろ姿、私を呼ぶピアノの声…… 旅先だからか、やけに感傷的で、思い出深い志摩の記憶へと辿り着く…… このまま人知れずどこか知らない所へ行きたかったが、そんな度胸もなければ、結局は、またここへ戻ってくることも知っていた。私が私として生きている限り、永遠に囚われ、繰り返し見ることになる、それらの光景。行ける所なんてどこにも無いと諦めかけ、煙草に火を点けようとしたその時、私はライターの揺らめく火を見つめていた。私の手が震えているからか、どこかから隙間風が吹いているからか、その姿は小刻みに踊る。根元は青く、先はオレンジ色の魅惑的な色彩を放ちながら、私の眼の奥の方へと光を送り続ける。幸せ…… 何かも分からない抽象的な幸福が私を満たし、その中へと身を投げ出したくなるような、何とも言い難い誘惑が脳を刺激する。しばらくして熱さに耐えかね指を離すと、照らし出していたキッチンの姿が残像のように網膜へと焼き付いていた。たった今の出来事ですら、すでに遠くへと追いやられ、私はここに居る筈なのに、もう、どこにも居ないような気持になる。もう一度、ライターを点けてみても、そこにあるのは、ただ揺れるだけの火だった。

 何時間もキッチンで過ごした後、ようやく自室へと戻った。アツカネもキッチンを出て行ってからずっと自室に閉じこもっているようで、壁を一枚隔てているだけなのに私達の距離は、この世で一番遠くに感じる。ただ静けさを抱いた時間だけが過ぎ行く。

 結局、一睡もしないまま早朝五時を迎えた。上着を羽織り、静かに部屋を抜け出し、ロビーへと下りる。すると、薄暗いフロアスタンドの灯りの下で、ここの住人の一人がソファーに深く腰を掛け、長い足を組みながら一冊の本を開いていた。微動だにせず、こちらのことなど気に掛けることもなく、没頭するようにも窺える俯いた顔は寝ているようにも見えたので、あえて声も掛けずに、私はロビーを静かに通り抜け、玄関の扉を開き外へと出た。

 街は、また霧に包まれていた。再び公衆電話までやって来ると、露に濡れた受話器を上げ、ポケットの中の硬貨を投入する。国番号に続いて電話番号を押し、日本へと繋がる呼び出し音を聞きながら、霧の中に乱反射する街灯のオレンジ色の光を眺めていた。
「はい、もしもし……」
 受話器の向こうの相手は、私だと分かっていたようにいつもの落ち着いた低い声だった。私は簡潔にこれまでの経緯や、アツカネのこと、そして、今後のことを説明する。
「そうか……」
 安堵だろうか、少しだが珍しく声色が変化した声の後、ボソボソと何か言葉は続いたが遠く聞き取りにくい国際電話なので、それ以上は何を言っているのかは分からないまま、無情にも電話は切れた。そして、もうこれ以上の硬貨も持ち合わせていなかった。

 霧の空を眺めながらクリサリスへと戻ると、ロビーにはさっきの住人がまだソファーに座っていたが、本を閉じ、奇妙な香りのする煙草の煙を燻らせていた。
「おはようございます……」
「ああ、おはよう……」
 アツカネとの断絶、電話の不通、立て続けに起こった後味の悪い出来事の後だったからか、私は誰かと何か会話をしたかったのかもしれない。
「すみません、煙草を一本貰えるかしら?」
「ああ、どうぞ、ゴロワーズで良ければ」
 差し出された煙草を受取り、彼がかざすライターで火を点けると、私も別のソファーに腰を下ろし、大きく煙を吸い込む。椎茸の出汁のような独特の味は少し苦手だったが、この際、煙草なら何でも良かった。
「夜通し、本を読んでいたの?」
「ああ、よくここで本を読んでいるよ。まあ、誰も居なくなった、この時間にだけね。ええと、君の名前は……」
「ミチヨです。よろしくお願いします」
「ああ、ミチヨだ、そう聞いている。私はスチュワートだ。よろしく」
「それで、何の本を読んでいたの?」
「ああ、これか、フランスの哲学書だ。ドイツ哲学のように肌が合わないと眠たくもなるが、どうやらこいつは、俺を真理へと導いてくれる良書のようだな。ずっと起きていられる。君は、どうだい? 哲学書は読むかい?」
「全く駄目ね。何だったか試しに読んだこともあるけど、幼い頃に枕元で母が読んでくれたどの絵本よりも効果的だったわ」
「ああ、それはきっとドイツの哲学書だな。哲学は良き母親のようなもので、時に人生の道筋を示し、時に良き眠りへと導く」
「面白い考察ね」
「こんなのもある。『燃える火へと飛び込むものに秘める本当の姿は……』、この先は忘れてしまったな。まあ、君が今吸っているそのタバコにも哲学はある」
 スチュワートの言葉の後、私は指に挟む煙草の先端で燃える火を見つめた。
「さて、もっと君と話をしていたいのだが、残念ながら仕事へ行く準備をしなければならない」
「えっ、今から? 寝ていないんじゃないの?」
「そうだな、まあ、どうにでもなるもんだよ」
 そう言い残した彼は立ち上がり、本を脇に抱え階段を上がっていった。
 ロビーに独り残された私は、煙草の火が消えてからも少しの間、窓の外の灯りを見つめながら火のことを考えていた。
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