2004年7月23日(未明から早朝) スチュワートのメモ帳

文字数 1,020文字

 仕事から帰宅したのは深夜2時過ぎ。いつもであれば、まだ賑やかである筈のロビーの灯りは暗く、誰一人としてそこに姿は無かった。日常におけるイレギュラーな出来事をどう捉えるか。それをごく稀にある出来事として処理し、通常の認識として対応するべきか。このプログラミング業務によく似た思考を簡素なディナーで咀嚼し、熱いシャワーを頭から浴びて数字の類のものと一緒に洗い流す。哲学の時間だ。

 未明から、これ幸いにと薄暗いロビーを占有し読書。これまで幾度となく眼でなぞった文字列自体にはもう意味を成さず、以前に同じ文字列を通過した眼による意識の差異を観察する。少なからず常に老いは付きまとい、焦点の定まり難いこの闇夜の中で、サンフランシスコの夜に独り語り掛けるのは、もうすでにこの世には存在しない著者の思考か。二千年を知っているか。あなたの時代とそれはさほど変わり映えしない今日。より煩雑と映る明日にあなたへ語り掛けることがまだあればよいのだが……

 本を閉じる鈍い音が静寂に溺れる。文字数が多くなる程、ページ数が多くなる程、表紙が豪華に厚くなる程、音は低く、その偉大なる知識や思考の集合知の存在の大きさを意識させる。同じ条件を持つ体裁の本であれば、例えそれが世に低俗として知られていようが、崇高だと呼ばれていようが、希少性が高いと扱われていようが、それはどのようなものであっても変わりはしない。そこへ書かれ、描かれた全ては等しく、余白に何を書き込むかは本を閉じた瞬間に託され、こちらへと手渡された訳であるから……

 ジャケットの襟を立て、まだ陽の訪れていない街を歩く。暗がりには暁に似たゴロワーズの燃え上がる灯火だけが浮かび、日本の燻された魚のスープのような香りが鼻を突く。草木や昆虫、生を享けたものが眠りに就く中で、夜行性の猫のように街を徘徊する瞳孔を開いた眼だけが見る世界は何と静かなものだろう。革靴のソールが砂利に軋む音が誰かの夢に響く。ゴールドラッシュに沸いた鉱山の十九世紀の夜も、言葉をジャズに重ねたノースビーチの五十年代の夜も、花々に彩られたヘイトアシュベリ―の六十年代の夜も、未だ目覚めを知らず、サンフランシスコは眠っている……

 夜を返す。多くの人々へ、陽を愛する全てのもの達へ、もちろん太陽へ。削り忘れた鉛筆の芯も短くなってしまった。この霧の湿った夜明けと共にベッドへ入れば、語り掛けることはこれからも続くだろう。私が終わる、その時までは……
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み