1994年7月19日 [ 3 ]

文字数 3,966文字

 呆気に取られた私を再度椅子に座らせ、何やら曲についての説明をし出すピアノ、その側でオサムさんはせっせと食材等を家へと運び込んでいた…… と思う。実際のところ、よく覚えていない。ピアノの説明もすり抜けてゆくように私は聞き流していた。なんで、私が歌うのだろう。そもそも歌なんて私の人生において、表に出てきたことすらもない。
「――で、お願いしたいの!」
「――ちょっとちょっと待って。私が歌うなんて無理よ」
 よく分からないまま、こんなやり取りをしていると、一度落ち着けとばかりにオサムさんが珈琲を淹れて持ってきてくれた。そして、ピアノに変わってオサムさんが、丁寧に説明をしてくれた。
 二人は現在、音楽のアルバムを制作しているらしく、曲を録音している最中とのこと。今日の大音量もそれだったわけだ。朝から何やらずっと議論していたことも全てアルバムの曲について。当初の予定ではインストの曲ばかりを想定していたけれど、作曲して録音をしている過程でボーカルを入れたい曲が出てきたので、近くにたまたまいた暇そうな私に白羽の矢が突き刺さったようだった。私の歌声も聴いたことがないのによく頼むな、とは思ったけれど、むしろそれがピアノらしくもあり、また、オサムさんの至って真面目で丁寧な説明を聞いている内に、私は流されるように提案を受け入れていた。こんなことも、もちろんこれまでであれば絶対にあり得ないことだったが、私の心が少し惹きつけられた理由もあった。よくよく話を聞けば無謀にも二曲想定しているらしく、曲名が「driftwood(流木)」と「black mare(黒い雌馬)」だったからだ。


 珈琲を飲み終えた私達は家の中へと入り、私は初めて二階へと通された。階段を上がっていくのは、正に私の知らない領域へと踏み込むような気持で、二階には廊下を挟んで二部屋あり、その一つの扉の中へと案内された私は一瞬の懐かしさを覚えた。部屋の天井はこの家の屋根の傾斜そのままで、私が借りて住んでいる部屋と似て屋根裏のようだったからだ。おそらく、この部屋に溢れる楽器屋と見間違う程に圧倒される量の楽器や音楽機材の方が驚くことなのだろうけど、今は随分と遠い家を思い起こされたことの方が私にとっては印象深かった。
「この部屋狭いから、ミチヨはそのドラムセットの椅子にでも座って」
 部屋の奥の低くなった壁際の一角はオープンリールと大きなミキサー卓にモニター用の小さなスピーカーとさらに別で大きなスピーカーが二つ、そしてラックに収められた機材にはたくさんのケーブルが刺さっていた。その横には古そうな二台の大きいギターアンプが重ねて置いてあり、さらに横にはベースアンプが一台並び、部屋に入ってすぐ右の角はコの字型に古いシンセサイザー数台と貴重なエレクトリックピアノが二台もあり、そして余った残りの一角に私が座るドラムセットが置かれていた。それぞれの物の隙間にはマイクスタンドが立ち、楽器や機材のハードケースが詰まれ、よく見ると至る所にパーカッションや小さな楽器も転がっている。とにかく、あちらこちらにケーブルが這っているので、確かにこの部屋でまともに座れる場所は、ミキサー卓の前に据えられたオサムさんが座る椅子、もしくはキーボードに囲まれたピアノが座る椅子、そして私が座るこのドラムの椅子以外にはなかった。
「で、ミチヨに歌ってもらいたい曲な、大まかには出来てるんやけど、歌詞がまだやねん。もうすぐ書き上がるから、とりあえず、曲だけ先に聴いてもらおうと思って」
 ピアノが話し終わると同時にオサムさんは何かを再生したようで、スピーカーからストリングスの暗い旋律が流れ始めた。洗濯物を干している時に聴いた曲と感じは似ていたけれど違う曲だった。長いイントロらしきパートが終わり掛けると単調なドラム音がゆっくりとフェードインし始め曲は新たに変化する。全体を通して細かな楽器の音が重なってはいたが、この段階で基本的に大きく主張するような感じはなかった。
「この感じだとさ、曲に占める歌の存在というか声の印象かな、かなり強くなりそうなんだけど……」
「もちろん、まだ仮の状態やし、ピアノの歌詞が出来て構成が決まったら各所に音は足すと思う。まあ、でも、基本的にはこの暗い単調な感じは変わらんかな」
 ピアノのライブでの即興とも違う、二人の普段の姿からはかけ離れた意外なこの曲調も、まだ私の知らないピアノとオサムさんの側面だった。少なくとも私に全くそぐわないような明るかったり楽し気な曲を歌わされなくて、その点は安堵した。
 もう一曲も聴かせてもらったが、こちらも暗く静かな曲調で、この眩いばかりの光が射す夏の志摩しか知らない私に取って、この土地で生まれた音楽とは信じられなかった。一体、この土地には何が潜んでいて、この二人にどんな影響を与えているのだろうか。最終的に音楽を奏でるのは人であり、その人の言葉に出来ない感性が音になるのは確かだろう。私は、まだまだ本当の二人のことは知りもしない。立て続けに流される他の曲を聴きながら、私は眼を閉じているピアノと人差し指でリズムを刻むオサムさんの横顔を見ていた。

 今のところ形となっている曲を一通り聴き終えた私達は、一階へ下りて珈琲で一服することにした。キッチンで珈琲を淹れる準備をしながらオサムさんは私にお願いがあると言った。
「えっ、実は三曲目があって、さらに歌うとか無理だよ……」
「大丈夫! 歌よりミチヨさんには簡単なことやから、なっ? ピアノ?」
「そうそう、これなんやけど」
 ピアノは椅子から立ち上がり、私が寝泊まりしている本の部屋の隣、これもまた、まだ中を見たことがない部屋の扉を開けた。すると、カーテンが閉じられた薄暗い部屋の中には黒いグランドピアノと木目調のアップライトピアノがあった。ピアノが手招きするので私も部屋へと入ると、グランドピアノの他には天井までびっしりとレコードが詰め込まれた棚が壁一面に設置されていて、側にターンテーブルが二台置いてあった。
「すごい…… DJみたいだね」
「そやで、オサムはあれでもDJもやってたりするし」
「おーい、『あれでも』は余計やぞー」
 隣のキッチンから声だけが飛び込んできて、思わず私は笑ってしまった。
「で、お願いしたいのは、このグランドとアップライトの調律なんやけど…… いい?」
 いつもであれば遠慮なく何でも言うピアノが少しよそよそしくて、そんな態度を私は逆に疑ってしまう。
「調律するのは、もちろんかまわないけど…… 何か隠してない? 一曲だと思っていたら二曲になったりするぐらいだから」
「ああ、バレた…… じゃあ、しゃあない。実は…… 二階のエレクトリックピアノの調律もお願いしたいなぁ…… なんて思ってたりするんやけど」
 意外だった。こんなこと気にせず頼んでくれればいくらでもするのに、これには何か訳がありそうだった。
「まだ、何か隠してるでしょ?」
「ああ、もう、はっきり言うわ! お金無いから、無料で全部お願い!」
 私からすれば、そんなことか、と思えるぐらいのことだった。でも、ピアノなりに気を遣ってくれているのも分かるし、何よりお世話になっている身で、私に出来ることがあるのは嬉しかった。
「嫌だ、なんて言わないよ。むしろ私に出来ることがあって助かった、って思うぐらいだから。もちろん、お世話になっているのでお金なんていいよ」
「ミチヨ―!」
 いきなり抱き付いてきたピアノに私は少し照れながらも、役に立てること、調律があって良かったと思った。

 夕暮れ前のポーチは風が吹き抜け少し気温も下がり、のんびりするには心地良かった。話題は曲のことばかりで、私が発言することはほぼ無かったけれど、何となくバンドの一員になった気分。これまで人と何か作り上げることなんてしたこともなかったので、これも新しい体験だった。
「――そして、アルバム完成したら、レコードにする予定やねん」
「レコードにするって、どこかの会社から出せるの?」
「違うでミチヨ、演奏、録音から、製作、販売まで全部自分達でやるんやで」
 二人の壮大な計画を聞かされている内に、いつしか今後の予定が何もない自分のことを考えていた。オサムさんの几帳面さや知識、ピアノの行動力や表現力があれば、出来ないことなんてないように思えてくる。それに比べて私は…… これから先、何が出来るのだろうか。
「でな、ゆくゆくは世界中の似たようなミュージシャンのアルバムも出せたらイイなって。でも、これには条件があって、灯台のある街のバンドとか、灯台に関連した何かがないとダメやねん。その名も、ハイっ! オサム発表して!」
「ファロス・レコーズ、ってレーベルにしようかなって」
 ファロスという言葉の響きも初めてで、さらにレーベルというのも知らない私にオサムさんは意味を教えてくれた。
「レーベルっていうのは、レコードとか作品をリリースする会社みたいなもので、名前のファロスっていうのは、昔エジプトのファロス島に建ってた世界の七不思議アレクサンドリア大灯台の別名みたいなもんかな。ファロスの大灯台みたいな感じ。まあ、つまり灯台の先祖とか元祖みたいな、なんやろ、伝説かな」

 一通り話し終えたところで、二人は嬉しそうに宴の準備をすると言って、家の中へと入っていった。木立に囲まれた陽の傾くポーチは一足早く暗くなり、吹き抜ける夜風が火照った顔に心地良い。私は少し独りになりたくてポーチの椅子に座りながら、闇へと消えゆく色彩を眺めていた。
 世間とはかけ離れた、この世の果てに近い、海の側の小さな家のポーチの一日も、今、終わろうとしている。ここには大きな夢があり、また私の夏の夢もまだ覚めそうにはなかった。
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