2004年7月18日 [ 5 ] 

文字数 2,110文字

 空港から乗ってきたタクシーが遠ざかってゆく。あの運転手は、このホテルへ泊まるのをオススメしなかった。私は建物へ足を踏み入れる前に全景が見たくて片側一車線ずつの通りを挟んだ反対側へと渡る。メッセンジャーバックから手帳を取り出すと、折れないように挟んでいた古い一葉のポストカードを取り出し建物と見比べられるようにかざしてみた。細かい違いはあったが間違いなくそれらは同じ「ホテル クリサリス」だった。しかし、色のくすんだ古びたポストカードとはいえ絵の中に描かれた当時の輝きは眼前の実際の建物には全く無く、あの運転手が言っていたようにオンボロでどこか怪しくて、お世辞にも良さそうな印象は皆無だった。
 再び建物へと近づき、まじまじと観察する。逆光の中に佇む薄暗い外観には古風なフォントでホテル名が大きく描かれた薄汚い大きな窓が二つと、それらが挟むように中央にはこれまた汚れたガラスのはめ込まれた観音開きの扉があったが、どちらから覗いても中は薄暗くて人の気配は無さそうだった。見上げた扉の上部には半円状の緑色のビニール製の庇が備えられていて、ポストカードの中に描かれた時代にはそれはまだ存在しなかったようだが、それも今は所々が破け穴から雲一つないサンフランシスコの青空を覗かせていた。間近で見た現実は運転手の忠告以上にオンボロで、少なくともこのホテルのオーナーは手入れをする気が無いのだろうと感じさせる。
 少し不安が湧き始めた中で扉の前に立つと、ガラスにはぶっきらぼうな白い小さな文字で『押すな、引け』と書かれていた。くすんだ金色の真鍮の取っ手に手を掛け手前へと引こうとしたが扉は一向に動かない。おかしいと思いつつも鍵が掛かっているのかと揺り動かしてみると、扉は音も無く素直に闇の方へと吸い込まれ開くのだった。つまらないジョークか何なのか理解出来なかったが、歓迎されているようには感じない。この一連の流れに、私は不思議の国のアリスのような心境だった。この先、意地悪な猫やトランプの兵隊なんかが現れるのだろうか。だが私は兎を追ってここへ迷い込み辿り着いた訳でもなかった。

 天井の高い薄暗いロビー…… 何とも表現し難い元はロビーだったと想像させられるこの異様な空間は静まり返っていた。もちろん、誰もそこには居ない。足を踏み入れると、少し黴臭い木の香りと、煙草の匂いが沈殿していて、午後の陰の薄暗さの中にありとあらゆる不思議な物を浮かび上がらせていた。私は何か特殊な境界線を越えたのだろうか。
 扉から入って左側に木製の細かい彫刻が施された重厚で古そうなカウンターと椅子が二脚あり、その背後の壁にはこれまた番号が振られた古そうな格子状の棚があったが、その各仕切りの間にはホテルのロビーカウンターには到底似つかわしくないお酒のボトルが何本も突き刺さっていた。それだけでも十分に変なのだがそれだけではなく、カウンターの上にもずらりとお酒の瓶が並び、飲みかけの酒が残ったグラスだったり、おつまみが入っていそうな小皿、灰皿の窪みに挟まったまま燃え尽きた吸殻や大量の小銭が入っている大きなガラス瓶がそのままに、ついさっきまでバーが営業していたかのような切り取られた時間がここにはあった。

 どこから見てもバーカウンターにしか見えない左側はさておき、さて右側はというと、どう表現すればよいのか分からない、ある程度のことなら許容出来ると思っていた私の理解すら超えた空間だった。
 天井から吊り下げられた大きく立派なシャンデリアはまばらにしか電球がはめられておらず、何より汚いスニーカーが靴紐で左右結わえられ垂れ下がり、そこから部屋の中央に据えられた背の高い観葉植物の葉の上へと埃まみれの蜘蛛の巣が繋がっている。その観葉植物も近くでよく見ると蜘蛛の巣だらけで、埃が積もった葉はプラスチック製の模造品であり、それが入っている大きな鉢の中には、土の代わりにスナック菓子の袋のゴミや潰れたビールの空缶がギュウギュウに詰められている。鉢植えの側には大きなソファーがあったが、ストライプだと思っていた生地の表面の模様は延々と続く細かい数字の羅列でおぞましさと狂気に溢れている。そして、石造りの雰囲気の良い暖炉の中にはすっぽりとテレビが入っていて、もちろん暖炉の上にはビデオやDVDのデッキ、おびただしい数のビデオテープとDVDのケースが積み上げられている。それらに半分埋もれるように暖炉の上部には立派な口髭を貯えた男性の大きな肖像画が掛けられていたが、その彼の髪が後退して広くなったと推察される額には『Don't lose sight of the truth! / 真実を見失うな!』と殴り書きがしてあった。これらは眼に付いた大まかなもので、挙げだせばキリがない程、部屋の至る所は容易に説明が出来ないもので溢れかえっていた。

 このまま待っていても誰かが出てくる気配は無い。私は辺りを見回しカウンターの上に置かれた丸い銀色の呼鈴を見つけた。呼鈴の横には『用がある際は押してください』と消えかけた文字で書かれていたので押してみたが…… やはり音は鳴らなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み